終戦後、ジャズなどのアメリカ音楽が日本に入ってくると、これまで聴いたことのない、輝きと明るさを持つ音楽に衝撃を受け、やがて、自分でも演奏してみたいと思うようになり、アコーディオンを弾き始めたという、キダ・タローさんは、関西学院高等部3年生の時には、タンゴバンドを組んで、音楽活動を開始したといいます。

「キダ・タローは中学生の時アコーディオンを弾き始めていた!」からの続き

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5人組のタンゴバンドを結成

肺結核で他界したお兄さんの遺品であるアコーディオンを弾くようになったキダさんは、関西学院高等部3年生の時には、アコーディオンとバイオリンの5人組のタンゴバンドを組むことになったそうで、

レパートリーはたった3曲だったそうですが、関西学院大学主催のダンスパーティーに週1回くらい呼ばれ(みな、お金持ちで大きな家だったそうです)、その3曲を演奏すると、お金をもらえたのだそうです。

藤岡琢也と共にタンゴバンドで活動していた

ちなみに、バンドメンバーには、後に俳優となる藤岡琢也(当時は藤岡茂)さんもおり、バイオリンを担当していたそうですが、

キダさんは、

彼(藤岡さん)は加古川のお金持ちの家の子なんですよ。お金持ちやから子どもの頃からバイオリンをやっていた。そのバイオリンが結構甘い音で良かったんですよ。

バイオリンとアコーディオンっていうと、楽器的にジャズではなくてタンゴなんです。クラリネットやギターを加えてタンゴバンドをやることになった

と、語っています。

ただ、藤岡さん本人は、中学生時代から音楽をやりたかったものの、なかなか機会がなく、また、本当はトロンボーンがやりたかったところ、値段が高すぎて買うことができず、高校生になって、ようやく、安い値段で手に入れることができる楽器として、バイオリンを手に入れることができたと語ってます。

(1948年に学制改革があり、関西学院高等部が設置されたそうで、キダさんは、中等部4年生から高等部2年生に編入したそうですが、高等部が設置されたことで、他校から転校生が多く加わったそうで、その中に藤岡さんもいたのだそうです)

年上のミュージシャンに教えを請うため米軍クラブを訪ねることも

そんなキダさんたちのバンドは珍しがられ、演奏の場がどんどん増えていったそうで、神戸港の突堤、芦屋の「リド・クラブ」、曽根文化会館などで行われていたダンス・パーティーなどで演奏していたそうですが、

向上心のかたまりだった高校生のキダさんたちは、もっとうまくなりたいとの思いから、年上のミュージシャンたちに教えを請うため、米軍クラブを訪ねて行ったこともあったそうです。

(終戦後、米軍基地には、米軍クラブと呼ばれる米軍関係者への飲食・娯楽の提供を目的としたクラブが設置されていたそうですが、米軍クラブでは、バンドを必要としていたそうで、大阪近辺では、100ほどのバンドと、1000名近いバンドマンたちが活動していたのだそうです)

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藤岡琢也が脱退しタンゴバンドは活動停止に

ただ、そんな中、藤岡さんが急にバンドをやめると言いだしたそうで、キダさんが理由を聞いても、曖昧な答えしか返ってこず、キダさんが納得できないまま、藤岡さんは脱退し、タンゴバンドは活動停止となったのだそうです。

(実は、藤岡さんは、この時、肺結核を患っていたそうで、アメリカから闇ルートを使って取り寄せた「ストレプトマイシン」という薬により、一時は回復に向かったそうですが、この薬は副作用の恐れから連続投与が禁じられていたほか、何より、高額だったことから、「気胸療法」に切り替えたそうですが、その後、入院を余儀なくされたそうで、バンドを脱退したのは、この前後だと考えられています)

「キダ・タローが若い頃はギターとトランペットを断念していた!」に続く

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