13歳の時、「ふろたき大将」の主演で子役で映画デビューするも、成長するにつれ、子役としての需要がなくなり、自暴自棄になって自堕落な生活を送っていたという、石橋蓮司(いしばし れんじ)さんですが、

もう一度、児童劇団ではなく、大人の芝居をやってみたいと、映画「越後つついし親知らず」(今井正監督)のオーディションを受けると、見事合格したそうで、

その後は、24歳の時に「劇団青俳」に入り、27歳の時には「劇団現代人劇場」を旗揚げ、1972年には劇結社「櫻社」を結成し、35歳の時には、パートナーの緑魔子さんとともに、劇団「第七病棟」を立ち上げるなど、精力的に活動するようになっています。

「石橋蓮司は子役時代「ふろたき大将」の主演で映画デビューしていた!」からの続き

Sponsored Link

石橋蓮司は日本大学を中退しアルバイトを転々としていた

成長するにつれて仕事が激減したことで、俳優業を続けることに葛藤を感じていたという石橋蓮司さんは、高校卒業後は、日本大学芸術学部映画学科に進学したそうですが、

学校の授業がまるで児童劇団と同じようなことをやっているように思えてつまらなくなり、中退したそうで、

その後は、

自分が本当にやりたいことを探して、今まで無意識でやってたことを、今後は意識してやらなきゃダメだと。でも何をやろうかって、バーテンになろうかとか、アメリカに行ってみようか

と、化粧品の訪問販売、精肉店、天ぷら屋など様々なアルバイトに明け暮れたそうで、

石橋蓮司さんは、当時の暮らしを、

そもそも自分で選んだわけでなく、他者任せで流れてきた道なので、役者道がどうこう、というより、(アルバイトは)生活の一部として一所懸命やっているだけでした

と、明かしています。

(ただ、そんな中でも、先生が好きだったという理由で、子役時代に始めた日本舞踊だけは続けていたそうです)

石橋蓮司は23歳の時に映画「越後つついし親知らず」のオーディションに合格していた

そんな悶々とした日々を過ごしていた石橋蓮司さんですが、当時は、新劇の役者が圧倒的に映画の脇を固め、評価されるという、新劇が全盛の時代だったことから、

自分ももう一度、児童劇団で培ったものではない、大人の芝居をやってみたい

と、思い切って、映画「越後つついし親知らず」(今井正監督)のオーディションを受けると、今井監督にその演技が評価され、見事合格したそうで、

石橋蓮司さんは、1964年、23歳の時、映画「越後つついし親知らず」で、ヒロイン・佐久間良子さんを強姦する、女中奉公先のドラ息子役に起用されたのでした。


越後つついし親不知

石橋蓮司は24歳の時に「劇団青俳」に入ると、27歳の時には「劇団現代人劇場」を旗揚げしていた

すると、石橋蓮司さんは、今井監督に評価されたことで、

まだやれる

と、自信を取り戻したそうで、

新劇の世界をのぞいてみたくなり、1965年、24歳の時には、木村功さんらが在籍していた「劇団青俳」の養成所に入所すると、そこで、作家の清水邦夫さん、演出家の蜷川幸雄さん、俳優の蟹江敬三さんと知り合い、

やがて、唐十郎さんや佐藤信さんほか、数多くの演劇関係者とも知り合い、ますます演劇を本気でやってみようという気持ちになったそうで、

1968年、27歳の時には、清水邦夫さん、蜷川幸雄さん、蟹江敬三さん、岡田英次さん、真山知子さんらとともに「劇団青俳」を脱退し、「劇団現代人劇場」を旗揚げしたのだそうです。

ちなみに、石橋蓮司さんは、後に、

1960年代後半は、社会的にも政治的にも日本が激動した時代でしたから。安保闘争なんかに対する、自分の見方や肉体表現のあり方を突きつけられて、各劇団は分裂を重ねていったんです。

俺は1968年あたりの、三里塚闘争や、王子闘争にも出かけていったので、闘争の志士と語り合うことも多かったんです。そんな中で蜷川幸雄さんらとも討論を重ね、さらに青俳にいた岡田英次さん、蟹江敬三さん、清水邦夫さんらと現代人劇場を旗揚げしたんです。

蜷川さんの周りには、唐十郎さん、黒テントの佐藤信さん、それから寺山修司さんなんかもいましてね。俺にとっては、一番甘美な時代だったんじゃないかなあ・・・

(「甘美」というのは)社会と演劇そのものとを、直接繋げられるっていうカイカンですね。今思えば冷や汗が出ますけど(笑)

当時は「ひとつの表現によって世の中そのものに切り込める」と青臭く考えていたんです。自分が食べるとか、経済性とかより、表現を先行させるという形で、無我夢中になれた時代でした。

と、語っています。

Sponsored Link

石橋蓮司は35歳の時に緑魔子と劇団「第七病棟」を旗揚げしていた

そして、1971年、30歳の時に、「現代人劇場」が解散すると、翌年の1972年には、清水邦夫さん、蜷川幸雄さん、蟹江敬三さんと共に劇結社「櫻社」を結成し、

このころは演劇の舞台に出演することが圧倒的に多くなり、映画やテレビドラマへの出演は限られました

と、精力的に舞台に出演していたのですが、

蜷川幸雄さんが、商業演劇に活動の幅を広げたことをきっかけに、1974年、33歳の時に「櫻社」も解散すると、石橋蓮司さんは、1976年、35歳の時、パートナーの緑魔子さんとともに、劇団「第七病棟」を立ち上げ、

使用されなくなった、銭湯、廃校、廃病院など、人から忘れられた建物を劇場に見立てて、唐十郎さんや山崎哲さんの戯曲を演じたのでした。

(ちなみに、劇団「第七病棟」は、4年に1度しか公演を打たなかったため、「幻の劇団」「オリンピック劇団」とも呼ばれていたそうですが、その後、石橋蓮司さんが腰を痛めてしまったことが原因で、2000年の舞台「雨の棟」を最後に公演は行われていないようです)

「石橋蓮司のデビューからの出演ドラマ映画を画像で!」に続く

石橋蓮司さんと緑魔子さん。

Sponsored Link