1954年、13歳の時、お母さんに連れて行かれた「劇団若草」のオーディションを受け、見事合格した、石橋蓮司(いしばし れんじ)さんは、同年、主演で映画デビューするなど、華々しいスタートを切るのですが・・・

「石橋蓮司の生い立ちは?実家は連れ込み宿(ラブホ)だった!」からの続き

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「ふろたき大将」の主演で映画デビュー

お母さんが当時のスター女優・木暮実千代さん見たい一心で、1954年、13歳の時、「劇団若草」のオーディションを受け、合格した石橋さんですが、

同年には、いきなり、東映児童映画の記念すべき第1作「ふろたき大将」(関川秀雄監督作品)に主演で映画デビュー。(「石橋連」名義)

この映画は、終戦から5年が過ぎた広島・似島(にのしま)の学園を舞台に、母親と生き別れになり、心を閉ざしていた少年・徳三が、「ふろたき大将」に任命されたことをきっかけに、自信と明るさを取り戻していく、というストーリーなのですが、

石橋さんは、後に、

「ふろたき大将」の時も、演技を何も考えないでやっていました。お母さんに会えなくてエキストラの子供たちが泣いちゃうような現場でしたから、その雰囲気のまま流れ込むようにやって、役柄の寂しさを出していきましたね。

オールロケでした。真っ黒の原爆ドームが忘れられなくてね(戦後まだ9年程度しか経っていなかったため)。映画と同じ光景を実際に僕たちは見聞きしていた。

でも、あのころの演技は純粋で欲がなくて、かえって良かったのかもしれない。母を思いながら遠くを見つめる場面で、監督から「その表現はいい。そういう気持ちを大事に役者を続けなさい」と言ってもらってうれしかったなぁ

と、素の感情で演じたことを明かし、それがかえって良かったと語っておられます。


「ふろたき大将」より。石橋さん(左)と神田隆さん(中央)。

高校生にして酒にタバコに女遊び

そんな石橋さんは、その後も、

1955年「暁の合唱」
     「33号車応答なし」
     「幼きものは訴える」


「暁の合唱」より。


「33号車応答なし」より。
     
と、映画に出演し、子役として活動を続けていたのですが・・・

幼い頃はいつも前から2、3番目と小柄だったのが、高校生になると、急に背が30センチも伸びたほか、声変わりもし、仕事が激減。

そんな状況に嫌気が差した石橋さんは、高校生にして、お酒、タバコ、女遊びを覚え、地元・大井町の「青線」(1946年~1957年頃に非合法で売春が行われていた地域)にあるショットバーで遊んだり、雀荘に入り浸るような、自堕落な日々を送ったのでした。

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「劇団若草」を退団し「東映」の児童劇団に

ちなみに、お芝居の方はというと、17歳頃、「劇団若草」を辞めて「東映」の児童劇団に入り、来た仕事をマネージメントしてもらう、という形をとっていたそうですが、

(年齢の規定が中学生までだったため、石橋さんは最年長だったそうです)

それではとてもお金にならず、肉体労働などのアルバイトもしていたそうで、

石橋さんは、後に、浅田次郎さんと水谷豊さんとの対談で、

何回もやめようと思いますしね。僕らの場合は。20歳近くになって、このままじゃとても認めてもらえないなって。

豊(水谷豊さん)なんかもそうだと思うけど、年とともに周りから追い抜かれていく。こんなことやってる場合じゃないと思うようになるんですよ。

と、俳優を続けることに葛藤があったことを明かされています。

「石橋蓮司が若い頃は緑魔子と劇団「第七病棟」を旗揚げしていた!」に続く

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