関西学院高等部3年生の時、5人組のタンゴバンドを組み、肺結核で早逝したお兄さんが使っていたアコーディオンで音楽活動を始めたという、キダ・タローさんは、大学進学後も音楽活動を続けたそうですが、お兄さんの形見のアコーディオンはボタンが8個しかないおもちゃのようなものだったことから、難しい曲の演奏には限界があったそうで、楽器を変えることにし、ギターやトランペットにチャレンジしたそうですが、うまくいかなかったそうです。

「キダ・タローは高校の時に藤岡琢也と共にタンゴバンドで活動していた!」からの続き

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母親の意向で関西学院大学理工科に1浪して進学

キダさんは、関西学院高等部時代、学校の勉強に対する興味がほとんどなく、学校に行きたくないことから、いつも朝寝坊し、最寄り駅の甲東園駅に着いた時には、すでに授業が始まる時間になっていたことから、学校へは行かずにビリヤード場に行き、大学生たちと遊んで帰ってくる、という生活をしていたそうで、

高校を卒業した後も大学には行きたくなかったそうですが、お母さんの「大学だけは出てほしい」という意向により、関西学院大学の入学試験を受けると、やはり、あえなく不合格となったそうです。

(キダさんの時代は、エスカレーター式ではなく試験に合格しなければ、進学できなかったそうです)

ただ、浪人して、翌年、再度受験すると、合格し、関西学院大学理工科(1946年に理工専門学部に改称)に進学したそうです。

(キダさんいわく、当時、キダさんが在籍していた「理工科」は、何の役にも立たない学科で誰でも入れたそうで、その後、理工専門学部に改称され、さらには廃部となったそうで、現在の関西学院大学理工学部とは直接関係ないそうです)

アコーディオンから別の楽器に転向することに

そんなキダさんは、関西学院大学に進学後も、高校時代から続けていた音楽活動(演奏のバイト)を続けていたそうですが、キダさんが使っていたお兄さんの形見のアコーディオンは、8つのボタンしか出ないおもちゃのようなものだったことから、難しい曲は、性能上、弾くことができず、

かといって、本格的なアコーディオンを購入するとなると、当時の価格で40万円と高額で、とてもキダさんの手に届くものではなかったことから、楽器を替えることにしたそうです。

(キダさんは、高級住宅地・夙川に住んでいるお金持ちの同級生をダマして、24個ボタンがあるアコーディオンを借りパクしようとしたそうですが、やがて、取りに来られて返却し、その後、神戸の国際楽器というところからも、アコーディオンを借りパクしようとしたそうですが、そちらも失敗し返却したそうです(笑))

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ギターとトランペットを断念していた

そこで、キダさんは、まずは、ギターをやることにしたそうですが、「ユー・アー・マイ・サンシャイン」の3つのコードぐらいしか弾けず、ギターの素質がないとあきらめたそうで、

今度は、トランペットを始め、こたつの中で練習して、進駐軍用のバンド(前列にサックス4人、後列にトランペット3人が並ぶ、10数人編成のビッグバンド)に入れてもらったそうですが・・・

(トランペットなどの金管楽器はピンからキリまであり、性能の良いものでなければ、安く買うことができたそうです)

キダさんは、全く音が出せなかったそうで、みんながブワーっと吹いている中で、バレないように、ヒューっと吹いたそうですが、

曲の間に、バンドマスターからそっと呼ばれ、

キダやん、練習してからやろうな

と、とても優しい声で言われたそうで、

トランペットもあきらめたのだそうです(笑)

(キダさんいわく、トランペットは口の形が重要だそうで、キダさんは向いていなかったとのこと)

「キダ・タローは大学時代ダンスホールでピアノ弾きとして働いていた!」に続く

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