明治大学時代、夫・宇崎竜童さんに誘われるがままに軽音楽部に入り、宇崎さんに頼まれて作詞をするようになったという、阿木燿子(あき ようこ)さんですが、1975年には、宇崎さんに頼まれて作詞した「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」が大ヒットとなり、阿木さんも一躍脚光を浴びます。
「阿木燿子は宇崎竜童から会う度にプロポーズされていた!」からの続き
夫・宇崎竜童の「ダウン・タウン・ブギウギ・バンド」の3rdシングル「スモーキン・ブギ」がヒット
1973年には、夫の宇崎竜童さんが、阿木さんの反対を押し切って、「ダウン・タウン・ブギウギ・バンド」でファーストシングル「知らず知らずのうちに」でデビューするのですが、
1974年には、3rdシングル「スモーキン・ブギ」が、見事、ヒットします。
作詞家デビューの「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」がミリオンセラーの大ヒット
そして、1975年4月には、阿木さんも、宇崎さんから頼まれて、「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」の作詞でデビューすると、なんと、この曲は、週間オリコンチャートで5週(1975年6月23日- 7月21日付)連続1位を獲得するなど、ミリオンセラーとなる大ヒット。
歌詞の中のセリフ、
アンタ、あの娘(こ)のなんなのさ
は、流行語になるほど、日本中に大ブームを巻き起こし、「ダウン・タウン・ブギウギ・バンド」は同年末には、「第26回NHK紅白歌合戦」に初出場を果たすほか、「第17回日本レコード大賞」で企画賞を受賞するなど、たちまち、スターダムへと駆け上り、阿木さんも作詞家としてたちまち脚光を浴びたのでした。
「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」はもともとはアルバムの収録曲だった
ちなみに、「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」は、もともと、アルバム「続 脱・どん底」(1975年2月20日発売)の収録曲だったそうで、宇崎さんから、アルバムを出すのに、曲が足りないから詞を書いてほしいと頼まれて久しぶりに書いたものだったそうですが、
評判が良かったため、4枚目のシングル「カッコマン・ブギ」のB面としてリリースすると、
(前作「スモーキン・ブギ」がヒットしたため、次のシングルもブギ物にしたのだそうです)
発売前からB面の「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」が有線チャートで人気急上昇したそうで、発売から1ヶ月後には、「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」はA面に格上げして再発売されたのだそうです。
「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」の歌詞は30分程で作っていた
また、阿木さんによると、この「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」は、自身が生まれ育った横浜と、その後、実家が引っ越しした横須賀という、自身にゆかりのある2つの街を舞台にして作詞したそうですが、30分ほどで仕上げていたそうで、
プレッシャーは感じませんでしたね。彼のLPが売れるなんて思ってませんでしたから(笑)。当時住んでいたこたつのある部屋で、ミカンを食べながら30分くらいでパッと閃いて書きなぐったんですが、それがヒットしたんです。
作詞するときは、閃きを大切にしています。閃(ひらめ)きのまま書いた作品と、頭でひねり出して作った作品とを比べると、不思議なもので閃きで作ったほうが起承転結の辻褄(つじつま)が合っているんです。だから閃きを曇らせないことが、私の仕事のひとつですね。
と、語っています。
「阿木燿子が若い頃は山口百恵に提供した「横須賀ストーリー」が大ヒット!」に続く