1967年、セカンドシングル「シーサイド・バウンド」で大ブレクすると、その後も、立て続けにヒット曲を連発し、瞬く間にスターの座へと駆け上った、岸部一徳(きしべ いっとく)さんたち「ザ・タイガース」のメンバーですが、実は、上京後、そんなメンバーの活動を陰で支え続けた人物がいました。

「岸部一徳は昔タイガースでシーサイド・バウンドが大ヒット!」からの続き

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メンバーの活動を支えたもう一人の「ザ・タイガース」

ところで、1966年11月9日、岸部さんたち「ファニーズ」(「タイガース」と改名する前の名前)が東京進出を目指して上京した際、東京駅には、「渡辺プロダクション」から、プロデューサーの池田道彦さんとマネージャーとなる中井國二さんが迎えに来てくれたそうですが、

この中井さんは、内田裕也さんから、初めて「ファニーズ」の写真を見せられた時から、「ファニーズ」にプロの雰囲気を感じ、オーディションでは「ファニーズ」の担当を願い出られたそうで、

世田谷区烏山町で3部屋ある一軒家を見つけてくると、メンバーと合宿をともにし、メンバーの演奏、ステージ、生活など、仕事としてのマネージメントだけではなく、兄貴分のような存在として、メンバーの面倒を見続け、活動を支えられたそうです。


「ザ・タイガース」のマネージャー・中井國二さん。

スパルタ式の特訓

また、中井さんは、プロデューサーの池田道彦さんとともに、「ファニーズ」に対し、デビューするにあたり、新宿「ACB」、池袋「ドラム」、京都「田園」、大阪「ナンバ一番」など、全国各地のジャズ喫茶で、連日昼夜問わず、1日10回ものステージを務めさせるなど、厳しい指導をされていたのですが、

(当時のワンステージは、40分と決まっていたため、「ファニーズ」は1日400分も演奏していたことになるのですが、そのうえ、車での移動で、自分たちで機材も運んでいたため、岸部さんたちは疲れ切り、睡眠時間は1日2~3時間と過酷だったようです)

お酒を飲むと、

彼らの音楽に対する解釈は今までの人たちとぜんぜん違う、彼らの最初のファンは、「ビートルズ」や「ローリングストーンズ」に夢中で、日本のバンドには目もくれなかった若い人たちです、音楽に対していつも冒険心を持っています。

と、熱く語っておられたそうで、

一日に四百分というのは、殺人的スケジュールです。でもプロになるにはそのくらいやらなければダメだった。僕自身も大変だった。

朝から夜遅くまでタイガースと一緒に行動し、彼らが千歳烏山にある合宿所へ帰ってから新宿へ出て池田さんと打ち合わせです。もちろん一杯やりながらですけど、よくあんなことができたと思いますよ。

と、「ザ・タイガース」の才能を見出し、それを磨き、開花させた、良き理解者で、以降、長きにわたり、メンバーの精神的支柱であり続けたそうです。

(ただ、中井さんは、2011年8月、ガンのため他界されています)

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引っ越しを考えるようになる

そんな中井さんの情熱的なサポートの甲斐もあってか、見事ブレイクした岸部さんたち、「ザ・タイガース」のメンバーですが、

「シーサイド・バウンド」のブレイクで、熱狂的なファンに追いかけられ、鳥山合宿所の周りにもファンが群がるようになり、ファンが雨戸に穴を開けて中を覗くようになったほか、

1967年7月4日、「モナリザの微笑」をレコーディングをする頃には、テレビ出演、雑誌の取材・撮影、ステージ、コマーシャル撮影など、分刻みのスケジュールに追われて、眠る時間もままならず、イライラしたメンバー同士が、合宿所内でも言い争うことが増えていったことから、次第に、引っ越しを考えるようになっていったそうです。

「岸部一徳はタイガースではメンバー間の争いの緩衝材だった!」に続く

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