内田裕也さんに声をかけられたことがきっかけで、「渡辺プロダクション」のオーディションに合格し、ついに、上京を果たした、岸部一徳(きしべ いっとく)さんたち「ファニーズ」。この後、「ファニーズ」は、「ザ・タイガース」と改名し、快進撃を開始します。
「岸部一徳らファニーズは内田裕也のスカウトで東京進出していた!」からの続き
東京へ出発
「ナンバ一番」で行われた「渡辺プロダクション」のオーディションに合格し、東京進出が決まった岸部さんたち「ファニーズ」は、1966年10月29日には、「ナンバ一番」で「ファニーズさよなら公演」を、11月3日には京都府立植物園で「ファニーズお別れ会」を開催して、関西での活動を終え、
11月9日午後1時18分、京都発の新幹線で、大勢のファンに見送られながら、それぞれの思いを胸に、東京へ旅立ちます。
(この時、「ファニーズ」のファンクラブには、会員が、なんと300名もいたそうです)
「ひかり」と間違えて「こだま」に乗っていた
こうして、京都発東京行きの「ひかり」に乗り込んだはずの、岸部さんたち「ファニーズ」のメンバーでしたが・・・
なかなか東京に到着しないため、おかしいと思って車掌に確認すると、なんと、間違えて「こだま」に乗っていたことが判明したそうで、
(当時、新幹線には、速達タイプの「ひかり」と、すべての駅に停車する「こだま」があったのですが、5人は新幹線に乗るのが初めてだったため、そのことを知らず、「こだま」も「ひかり」のように速達タイプの新幹線だと勘違いされていたそうです)
その後、岸部さんたちは、予定より大幅に遅れて、東京駅に到着したのでした。
(途中、瞳みのるさんだけ、おばさんの家に寄るため、名古屋で下車されており、この時到着したのは4人だけで、瞳さんとは11日に合流されたそうです)
「ザ・タイガース」に改名させられる
さておき、「ファニーズ」は、その3日後の11月12日、「日本グラモフォン」(後の「ポリドール・レコード」で、現在は「ユニバーサルミュージック」に併合)のオーディションを受けると、見事合格し、11月15日には、初めての音楽番組「ザ・ヒットパレード」に出演が決定しているのですが、
沢田研二さんによると、その際、「渡辺プロダクション」の制作部長から依頼を受けた、作曲家のすぎやまこういちさん(当時、「ザ・ヒットパレード」のプロデューサー)から、
大阪から来たわけ?じゃ、タイガースだ(プロ野球の阪神タイガースにちなむ)
と言われ、「ザ・タイガース」と改名させられたそうで、
そのうえ、「渡辺プロダクション」からの指示により、バンドのリーダーも瞳さんから岸部さんに変更されます。
「シーサイド・バウンド」が大ヒット
そして、いよいよ、「ザ・タイガース」は、1967年2月、ファーストシングル「僕のマリー」(すぎやまさん作曲)でデビューを果たすのですが・・・人気はパッとせず。
「僕のマリー」
(実は、デビュー曲「僕のマリー」は、前年の1966年12月1日にレコーディングされているのですが、これまで洋楽のコピーを中心に演奏してきた岸部さんたちメンバーは、日本語の歌を歌うことに少し抵抗を感じ、また、自分たちが演奏してきた曲との違和感にも失望していたそうです)
それでも、内田裕也さんと「内田裕也とタイガース」を組み、1966年12月から、新宿のジャズ喫茶「ACB」で、「ファニーズ」時代に演奏していた洋楽のコピーの演奏を続け、
翌年の1967年1月15日、「第31回日劇ウェスタンカーニバル」で、内田さんと尾藤イサオさんのバックを引き受ける条件で、内田さんの用意した衣装を着て、「モンキーズ」のテーマ1曲だけ演奏されると、これを契機に、ジャズ喫茶に出演するたびにファンが増え続け、同年3月頃には人気爆発。
5月に発売したセカンドシングル「シーサイド・バウンド」は、いきなり、レコードセールス40万枚を超える大ヒットを記録したのでした。
すると、その後も、1968年にリリースした、
「君だけに愛を」
「銀河のロマンス/花の首飾り」
「シー・シー・シー」
「君だけに愛を」より。
「銀河のロマンス/花の首飾り」より。
「シー・シー・シー」より。
が立て続けに大ヒットを連発し、「ザ・タイガース」は、瞬く間にスターの座へと駆け上り、当時、流行していたグループ・サウンズの中でも頂点を極めたのでした。
(この頃、デビュー当時からあらゆる面でサポートしてくれた内田裕也さんから完全に独立されたそうです)
「岸部一徳や沢田研二らを支えた「もう一人のタイガース」とは?」に続く