1970年には「群衆の中で」でデビューした、小田和正(おだ かずまさ)さんですが、音楽の道に進むか建築の道に進むかなかなか決められず、決断を引き伸ばすため、大学院に進学していたといいます。

「小田和正が若い頃は客から酷いヤジを飛ばされていた!」からの続き

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オフコース(音楽活動)と大学院生の二刀流だった

コンテストで優勝して音楽をやめ、建築家になろうという思惑が外れ、2位に終わったことから、負けたことが悔しく、やめるにやめられなくなってデビューしたという小田さんですが、

1971年には、(東北大学大学院の受験に失敗したため)早稲田大学大学院理工学研究科建設工学専攻修士課程に進学して、建築の研究も続け、

1973年には、1年休学して、「オフコース」の初アルバム「オフ・コース1 / 僕の贈りもの」(6月5日)をリリースしたそうで、

しばらくは、音楽活動と大学院生の二刀流だったといいます。


オフ・コース1 / 僕の贈りもの

建築の道に進むか音楽の道に進むか迷っていた

実は、大学院に進学したのは、建築の道に進むか、音楽の道に進むか、迷いがあり、どちらか一つに決められなかったため、とりあえず東京に行って考えようと、少しでも決断を長引かせるための作戦だったそうで、

それまでは東北大学という環境しか知らなかったことから、早稲田大学大学院の環境では建築に対する考え方が変わるかもしれないと思ったほか、早稲田大学大学院と東北大学を比較してみたいとも思ったのだそうです。

(その隙に、音楽の方へ行ってしまおうかという気持ちもあったそうです)

7枚目のシングル「眠れぬ夜」が初ヒットするも・・・

そんな小田さんは、1974年1月10日、札幌・道新ホールで行ったライブでは、観客は僅か13人と、音楽活動では、相変わらず鳴かず飛ばずの日々が続いたそうですが、

同年12月20日にリリースした7枚目のシングル「眠れぬ夜」で初のヒットを記録。


「眠れぬ夜」(小田さん(左)と鈴木康博さん(右))

ただ、その後は、ヒット曲が出なかったことから、プロとしてデビューした事実があるにもかかわらず、自分たちがプロだとははっきり言い切ることができない曖昧な気持ちのまま、しばらく悩む時期が続いたのだそうです。

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建築をやめ音楽の道1本に絞った理由とは?

しかし、やがては、気持ちが音楽一本になり、1976年、大学院修了時には、完全に音楽の道を選択したそうで、

小田さんは、インタビューをまとめた書籍「「100年インタビュー」保存版 時は待ってくれない」で、建築をやめ、音楽の道1本に絞ったた理由について、

もう建築はやめよう、あてもないのにって。ちょっと前にそのころのことを思い出したんだけど、あれを決断させたのは何だったろうといえば、何の根拠もなかったなと思ってね。

と、語っているのですが、

とにかく音楽が好きだったっていう、それしか見当たらないんだよね。みんなでハモりはじめたときの、「あっ、いいよね、ハモるの」という気持ちとか。それで、音楽を離れることはできないなと思ったんだよ。

でも、建築は離れられる。ただ、建築は、まだそこまで一生懸命やっていないからだったんだと思う。実際に建てはじめたりしていれば、また違う面も見えてくるからね。もちろん、音楽もそうなんだけど。やっぱり、音楽は捨てられないなという消去法みたいな感じだったな。

とも語っており、やはり音楽があきらめられなかったようです。

(ちなみに、小田さんの修士論文のタイトルは「建築との訣別」だったそうですが、審査を担当した安東勝男教授に「私的建築論」と変更させられたそうです)

「小田和正は若い頃「オフコース」にロックを取り入れシャウトしていた!」に続く

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