「オフコース」時代には、小田和正さんらと、「眠れぬ夜」「さよなら」「YES-No」「風に吹かれて」「YES-YES-YES」ほか数多くのヒットを飛ばした、鈴木康博(すずき やすひろ)さん。

実は、小田和正さんとは、別々の小学校で、お互い中学受験の為に通っていた電車の中で一度きり声を交わしただけだったそうですが、進学先の私立中学校で偶然の再会を果たしていたそうで、それ以来、長年、活動を共にすることになったといいます。

今回は、鈴木康博さんの生い立ち(小学校時代~大学時代)をご紹介します。

鈴木康博

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鈴木康博のプロフィール

鈴木康博さんは、1948年2月18日生まれ、
神奈川県横浜市磯子区の出身、
静岡県田方郡修善寺町(現・伊豆市)生まれ、

身長182.8センチ、

血液型はB型、

学歴は、
屏風ヶ浦幼稚園
⇒横浜市立浜小学校
⇒聖光学院中学校・高等学校
⇒東京工業大学制御工学(ロボット工学)専攻卒業

ちなみに、「鈴木康博」は本名で、
「康博」という名前は、両親が結婚式を挙げた三嶋大社で名付けてもらったのだそうです。

鈴木康博は幼少期に横須賀市追浜から横浜市磯子区屏風浦に移り住んでいた

鈴木康博さんは、お母さんの実家がある修善寺(伊豆市)で、2人きょうだい(2歳年下の弟が1人)の長男として誕生すると、

京浜急行電鉄に勤務していたお父さんの会社の社宅があった横須賀市追浜で育ち、4歳の時に、横浜市磯子区の屏風浦に移り住んだそうです。

(大学を卒業して実家を出た後も、25歳ぐらいまで屏風浦で過ごしたそうです)

鈴木康博は中学受験のため学区外の横浜市立浜小学校に通っていた

ただ、鈴木康博さんの学区の屏風浦小学校は、1学年に16組の二部授業になるという話があったそうで、

鈴木康博さんは、早くから鈴木康博さんを私立に進学させたいと思っていたお母さんの意向で、学区の屏風浦小学校には通わず、生徒の数が少ない学区へということで、学区外の横浜市立浜小学校に市電に乗って通うことになったそうです。

(二部授業とは、教員や教室が不足しているなどの理由から、生徒を午前・午後などの2つのグループに分けて授業することを言うそうです)

鈴木康博は小学3年生の時に進学塾に通う電車の中で小田和正と知り合っていた

そんな鈴木康博さんは、小学校時代、中学受験のために進学塾にも通うことになったそうですが、

小学3年生のある日のこと、進学塾に通っていた電車(京浜急行電鉄)の中で、後に、「オフコース」で一緒に活動することになる小田和正さんと知り合ったそうで、

小田和正さんがこの時、「トンネルに入ると警笛を鳴らす」というイタズラをしていたことから、鈴木康博さんは、そんな小田和正さんに近づき、一緒になってこのイタズラをしたといいます。

鈴木康博は中学で小田和正と再会し意気投合していた

ただ、鈴木康博さんと小田和正さんは、別々の小学校に通っていたことから、それ以来、会うことはなかったそうですが、

その後、鈴木康博さんが、中学受験で第一志望の栄光学園に落ち、聖光学院(中高一貫校)に進学すると、そこで小田和正さんと再会を果たしたそうで、意気投合した二人はすぐに友人同士になったのだそうです。

(小田和正さんも、第一志望の栄光学園に落ち、聖光学院に進学したのだそうです)

鈴木康博は中学2年生の時にラジオから流れてくるアメリカンポップスを聴いて衝撃を受けていた

また、鈴木康博さんは、中学2年生の頃、ラジオで電話リクエストが流行っていたことから、ラジオをよく聞いていたそうですが、

ラジオから流れてくる、パット・ブーン、ジーン・ピットニー、リッキー・ネルソン、ポール・アンカ、ニール・セダカなど、アメリカのポップスに衝撃を受けたそうで、

英語の歌詞を必死に聴き取り、聴きかじりで歌をマネしたそうです。

(鈴木康博さんが初めて買ったレコードは、クリント・イーストウッドさん主演のテレビ番組「ローハイド」の主題歌だったそうです)

鈴木康博は高校1年生の時にガットギターの練習を始めていた

そんな鈴木康博さんは、高校1年生の時には、初めて、ガット(ナイロン)ギターを買い、学校や(後にオフコースで一緒に活動することになる友人の)地主道夫さんの家で練習を始めたそうで、

当時は、フォークソングが流行っていたそうですが、どうしても「テケテケテケ」がやりたくて、ベンチャーズの曲を練習し、

(ただ、どうしても、ガットギターのナイロン弦では、「テケテケテケテケ」の雰囲気が出ず、ガットギターに鉄の弦を張るなど、いろいろと試したそうです)

高校1年生の冬には、学校でのクリスマスコンサートに、ブラスバンドのメンバーたちと一緒に出演し、ガットギターで演奏したのだそうです。

鈴木康博は高校2年生の時に小田和正とビートルズの「恋する二人」をハモり、自分も歌えると感じていた

そんな中、鈴木康博さんは、高校2年生の時、学校からの帰り道、友人の小田和正さんとビートルズの話になり、ビートルズの「I Should Have Known Better(恋する二人)」をハモりながら帰っていたそうですが、

2人で歌うときれいにハモれてすごく心地が良く、

あ、自分も歌えるんだ

と、思ったそうで、

このことがきっかけとなり、鈴木康博さんは、本格的に音楽を始めたのだそうです。

(小田和正さんは、この経験を、「オフコースの原点」と語っています)

鈴木康博は高校3年生の学園祭のステージで大好評を博していた

また、鈴木康博さんは、同じく高校2年生の時、学園祭(「聖光祭」)で先輩たち4人が「ニグロ・スピリチュアル」という黒人霊歌(ゴスペル)をアカペラで歌っているのを見て、

勉強もできて、音楽もできてカッコイイぞ。ああいう存在になりたい!

と、憧れたそうで、

自分たちも、高校の卒業の記念に「足跡をのこしてやる」と決意し、友人の小田和正さん、地主道夫さん、須藤尊史さんと共に「ブラザース・フォア」(1960年代に人気を博したアメリカのフォークソンググループ)などの曲を4~5曲練習し、

高校3年生の時には、目標通り、「聖光祭」で、小田和正さん、地主道夫さん、須藤尊史さんと共にステージに立ち、演奏を披露すると、

とても評判が良く、先生からも、

君たちは二日目の閉会式の前に、もう一回演奏しなさい

と、言われたそうで、

二日目の閉会式の前にも演奏すると、演奏後は拍手が鳴り止まなかったのだそうです。

(鈴木康博さんはこの時の万雷の拍手が今も忘れられないそうです)

鈴木康博は大学在学中も小田和正と地主道夫と共に音楽活動を続けていた

ただ、鈴木康博さんは、高校卒業後は、東京工業大学に進学し、小田和正さんと地主道夫さんは東北大学に進学したことから、東京と仙台で離れ離れになったそうですが、鈴木康博さんは、仙台まで車に楽器を積んで行き来していたそうで、

大学在学中も、小田和正さん、地主道夫さんと3人で、横浜市磯子区の区役所の400人ぐらいの会場や、横浜市紅葉坂(桜木町)の青少年センターでコンサートを行うなど、音楽活動を続けたのだそうです。

(高校の学園祭で共にステージに立った須藤尊史さんは、高校3年生の時に脱退したそうです)

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鈴木康博は21歳の時にヤマハのコンテストに出場したことがきっかけでプロの道に進む決意をしていた

そして、1969年11月2日、21歳の時には、「The off Course」(ジ・オフコース)として、仙台エリアから「第3回ヤマハライトミュージツクコンテスト(LMC)」に出場すると、見事、東北大会で優勝。

全国大会には、かなりの自信を持って出場したそうですが・・・

2位に終わってしまったのだそうです。(優勝は「赤い鳥」)

ただ、鈴木康博さんは、この「第3回ヤマハライトミュージツクコンテスト(LMC)」への出場をきっかけに、内定していた「安川電機」への就職を蹴っていたそうで、プロとして音楽の道に進む決意をしたのだそうです。

「【画像】鈴木康博の若い頃は?オフコースは長年小田和正と2人体制だった!」に続く

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