大学在学中の1969年、小田和正さん、地主道夫さんと「ジ・オフコース」(オフコースの前進バンド)を結成すると、以降、「オフコース」の中心メンバーとして活躍するも、「オフコース」が人気絶頂だった1982年に脱退した、鈴木康博(すずき やすひろ)さん。

そんな鈴木康博さんの「オフコース」脱退理由ですが、1979年12月1日にリリースした、小田和正さん作詞作曲の「さよなら」が大ヒットしたことにより、レコード会社「東芝EMI」の意向で、小田和正さんメインで売り出すことになったことが原因と言われているのですが、果たして本当なのでしょうか。

今回は、鈴木康博さんの「オフコース」脱退理由や小田和正さんとの関係について、鈴木康博さん本人と小田和正さんの証言を交えてご紹介します。

鈴木康博と小田和正

「【画像】鈴木康博の若い頃(ソロ時代)は?現在までのアルバムや経歴まとめ!」からの続き

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鈴木康博が「オフコース」を脱退した理由

理由①「オフコース」が自分のやりたい音楽から離れていった

ディレクターから日本武道館向けのサウンドを提案されていた

鈴木康博さんによると、「オフコース」は、アルバム「FAIRWAY」(1978年10月5日発売)をリリースした後あたりから、

スタッフが、

日本武道館へ行こう(目指す)!

と、言い出したそうですが、

鈴木康博さんも小田和正さんも、

武道館を目指すなんて、必要ないんじゃない。多くの方が見に来てくれるなら市民会館を1週間とかやればいいじゃん!

と、思っていたそうです。

そんな中、小田和正さんが、「愛を止めないで」のメロディーを作ると、

(「愛を止めないで」は1979年1月20日に発売されたオフコースの通算15枚目のシングルで初のヒットシングル)

ディレクターから、この「愛を止めないで」を、

康、ちょっとこの感じをやってみない?

と、アメリカのロックバンド「ボストン」のようなエレキ・ディストーション・サウンドのアンサンブル(いわゆる音の大きな武道館のサウンド)で作ってみようと提案されたそうで、

鈴木康博さんは、

そこでセミアコからレスポールのようなソリッドなエレキに持ち替え、初めてディストーションを入れてビヤ~ンという音を出したんです。僕はあんまり好きじゃなかったんですけどね

と、語っており、

徐々に、「オフコース」が自身のやりたい音楽から離れていくことに、戸惑いがあったようです。

松尾一彦、大間ジロー、清水仁の3人が加わったことでロック化していた

そんな中、1979年8月には、サポートメンバーだった、松尾一彦さん(ギター)、大間ジローさん(ドラムス)、清水仁さん(ベース)の3人が、「オフコース」の正式メンバーに加わったことで、音楽そのものが変化していったそうで、

鈴木康博さんは、

仁、松尾、ジローの3人はバンドやっていたじゃないですか。だから『ロックやろうよ。チープ・トリックだって武道館やっているし……。やっぱり夢はローリング・ストーンズ! 年をとってもやっていければいいじゃん』って、マネージャーも絶対にできるとその気になっちゃってね。

そこから俺も小田も『ロックって何?』という話になり、それまで注目してこなかったローリング・ストーンズとかも聴くようになったんです。

まあ当時の産業ロックはアドリブも含めてサウンドはできあがっていたし、アドリブを売りにしてというサウンドでもなかったので、『康ならできる』というディレクターのゴリオシはすごかったなと、今は思いますね

と、語っており、

「オフコース」がロックサウンドへと、音楽性が変わっていたことを明かしています。

また、小田和正さんも、

(3人が加わったことで)音楽的なことで言えば、自分がやろうとしているものを結構、変えられたということがあるのかもしれない。

ロックの連中はよりシンプルにしようとしていたが、ヤス(鈴木康博さん)はシティ・ポップというか、AORというかさ、もう少ししゃれた感じをやろうとしていたのが、その芽をわりと摘まれてしまったということはあったかもしれないとは思う。

と、語っており、

鈴木康博さんの中では、

オフコースはロックじゃない

という気持ちが強かったようです。

理由② 「さよなら」が大ヒットしたことによりバンド内の立ち位置が難しくなっていった

その後、「オフコース」は、1979年に小田和正さん作詞作曲の「さよなら」(1979年12月1日リリース)が大ヒットし、たちまち人気を博すと、

(当時の)レコード会社「東芝EMI」の意向で、小田和正さんメインで売り出すことになったそうで、これまで自由に創作活動をしていた鈴木康博さんの立ち位置が難しくなっていったといいます。

理由③ 海外ミュージシャンの質の高いパフォーマンスを見て自信を失い曲が作れなくなっていた

ただ、鈴木康博さんとしては、歌詞を書くのが苦手だったことから、(シングル化するには恋愛の歌を書かなければならなかったそうですが、特に恋愛の歌詞を書くことができなかったそうで)歌詞を書くのが上手だった小田和正さんに、売れる曲作りは任せ、自分は、音楽(サウンド)を追求してアルバムを充実させようと考えていたそうです。

しかし、アルバム「We are」(1980年発売)のレコーディングのためロサンゼルスに行った際、「TOTO」など、アメリカのミュージシャンたちのライブを見て、かなり質の高いパフォーマンスに衝撃を受けたそうで、

鈴木康博さんは、

みんな滅茶苦茶に上手くて、演奏のレベルも音楽的知識も違うわけです。・・・これから必死で練習をしても至ることはできないだろうなと、正直に言って打ちひしがれた部分もありました。

そんな衝撃もあって、1979年あたりから曲が作れなくなってきて、オフコースを『辞めたい』ということを伝えたんです

と、曲までも作れなくなったと明かしており、「さよなら」が大ヒットした時には、グループからの離脱を考えていたのだそうです。

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鈴木康博が「オフコース」を脱退した理由のまとめ

以上のことから、鈴木康博さんが「オフコース」を脱退した理由は、

小田和正さんと共に作り上げてきた「オフコース」が、自身のやりたい音楽活動から離れて、あまり好きではなかったロックへと音楽性が変わっていったことに加え、

小田和正さんが作詞作曲した「さよなら」が大ヒットしたことで、小田和正さんをメインで売り出すこととなり、これまで小田和正さんと対等な立場だった鈴木康博さんの立場が微妙になって、小田和正さんとの仲がギクシャクする中、

海外ミュージシャンの演奏レベルの高さを目の当たりにして自信を失うなど、様々なことが重なったことが原因と考えられます。

ちなみに、鈴木康博さんは、「オフコース」の大ヒットアルバム「I LOVE YOU」に3曲提供しているのですが、その中の1曲「愛のゆくえ」は、オフコースを離れる心情を歌詞にし、歌ったものだといいます。

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また、鈴木康博さんは、この「愛のゆくえ」と「素敵なあなた」を、後に自身のソロアルバム「FORWARD」でセルフカバーしています。

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お読みいただきありがとうございました

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