高校の時には、インストゥルメンタル・バンド「トーン・ダイヤモンズ」を結成するほか、次々と女の子を好きになっては、その想いを曲にして、その子に渡していたという、吉田拓郎(よしだ たくろう)さんですが、大学進学後、新バンドを結成すると、瞬く間に地元広島で人気を博します。

「吉田拓郎の「準ちゃん」は高校で片思いしていた実在の女性だった!」からの続き

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「ビートルズ」のコピーバンド「プレイボーイズ」として活動

1963年、高校2年生の時、インストゥルメンタル・バンド「トーン・ダイヤモンズ」を結成した吉田さんは、曲作りでは、特に、パーシー・フェイス楽団の「夏の日の恋」とボブ・ディランの「風に吹かれて」に影響を受けたそうですが、

1964年、高校3年生の時には、ビートルズの影響を強く受け、バンド名を「トーン・ダイヤモンズ」から「プレイボーイズ」に変更して、ビートルズのコピー専門バンドとして活動したそうです。

(学校内では発表の機会がなかったため、友人の通う広島商業高校で、後に「ザ・ダウンタウンズ」として共に活動するメンバーが結成したロックバンド「ザ・スカイラークス」の演奏会にゲスト出演させてもらっていたそうです)

バンド「ザ・バチェラーズ」で人気を博す

そんな吉田さんは、高校卒業後は、広島商科大学(現・広島修道大学)に進学し、自身のバンド「プレイボーイズ」と、友人のバンド「ザ・スカイラークス」を合流させ、新しいバンド「ザ・バチェラーズ」を結成すると、瞬く間に人気を博し、

(吉田さんは、ドラムスを担当し、ベースの人の家や近所の公園で練習していたそうです)

同年9月12日には、「広島平和記念館集会室」で初のリサイタルを開催し、ビートルズのコピーのほか、吉田さんのオリジナル曲を演奏すると、お昼の3時と夕方6時の2回公演で900人もの観客が詰めかけ、お客さんが途中から踊り始めてお大騒ぎとなるほどの盛況ぶりとなり、

翌年の1966年3月31日にも、「広島見真講堂」で2回目のリサイタルを開催すると、700人もの観客が集まり、ここでも大成功を収めたのでした。

(以降、この「広島平和記念館集会室」では、エレキギターの使用が禁止されたそうです)

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東京進出を試みるも相手にされず

こうして、2度のリサイタルを成功させた吉田さんは、1966年4月5日には、東京進出を目論(もくろ)み、家出して、メンバーのMさん(「広島商業高校開校以来の天才」と呼ばれた広島大学の学生)とともに上京すると、

(途中、京都の同志社大学生のKさんと、東京では、歯科大生のFさんとも合流)

当時、吉田さんたちが唯一知っていた、有楽町にある「渡辺プロダクション」を訪問し、自分たちを売り込むのですが・・・

面接では(面接官はチャーリー石黒さんだったそうです)、

君達のような若者が毎日来るんだ

と、言われ、まったく相手にされなかったのだそうです。

それでも、吉田さんは、自身のオリジナル曲を含む演奏を録音したテープを置いて帰ったそうですが、やはり、「渡辺プロダクション」から連絡はなかったそうで、

メンバーたちは目標を失ってしまい、ほどなくして、「ザ・バチェラーズ」は自然消滅してしまったのだそうです。

「吉田拓郎は大学時代「ザ・ダウンタウンズ」でも人気を博していた!」に続く

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