朝鮮総督府官吏として、植民地下の朝鮮半島で農地制度近代化を支えたという、吉田拓郎(よしだ たくろう)さんのお父さんの吉田正廣さんですが、終戦後は、鹿児島県に引き揚げ、郷土史家となったそうで、そこで、吉田さんが誕生します。

「吉田拓郎の父親は朝鮮総督府官吏の吉田正廣!」からの続き

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「評伝 朝鮮総督府官吏・吉田正廣とその時代」

戦前、朝鮮で朝鮮総督府農林官吏として勤務していたという、吉田さんのお父さんの吉田正廣さんですが、正廣さんは、なんと、小作地約2000ヶ所からの報告書をたった一人で処理するなど、とても優秀な人物だったそうで、

2021年には、正廣さんの功績をまとめた研究書「評伝 朝鮮総督府官吏・ 吉田正廣とその時代」が、広島修道大学の坂根嘉弘教授により出版されているそうです。


評伝 朝鮮総督府官吏・ 吉田正廣とその時代

「吉田正廣」が「吉田拓郎」の父親であることが判明

実は、坂根教授は、今から30年ほど前、鹿児島大学に在籍中、鹿児島県史を編さんしたという元県職員「吉田正廣」氏を知ると、その後、朝鮮農村関係の史料でも「吉田正廣」氏を発見し、2人の「吉田正廣」氏が同一人物なのか気になったそうですが、調べる手がかりがなかったそうです。

(正廣さんは、終戦後、帰国し、鹿児島県の郷土史家となっています)

それが、2017年頃、たまたま手にした雑誌に掲載されていた吉田拓郎さんのインタビュー記事を読み、2人の「吉田正廣」氏が同一人物で、しかも、吉田拓郎さんのお父さんであることが判明し、再び、興味が湧き、「吉田正廣」氏について、本格的に研究しようと思い立ったのだそうです。

吉田拓郎の姉・宏子の協力で完成していた

とはいえ、史料はほとんど残っておらず、困っていたところ、広島修道大学の同僚が吉田家の親族だと分かり、正廣さんの娘・松尾宏子さん(拓郎さんの姉)を紹介してもらうと、

宏子さんから、正廣さんの著書・手紙・写真などを提供してもらい、研究が進んだそうで、研究書を書き上げることができたのだそうです。

ちなみに、娘である宏子さんでさえも、正廣さんの仕事のことは何も知らなかったそうで、お父さんの業績が明らかとなったことで、大きな驚きと共に、この研究書に感謝しているとのことでした。

また、拓郎さんは、家庭での正廣さんについて、

うちの親父って鹿児島男児なんです、西郷隆盛みたいな人で、もうほんと朝は7時頃起きて、乾布摩擦とか冷水摩擦とかやる薩摩男児なんですよ。夜は薩摩焼酎飲んでクイっと寝るっていう。

と、明かしています。

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生い立ち(幼少期)

さておき、終戦後の1945年夏、朝鮮から鹿児島県に引き揚げ、その後、鹿児島県の郷土史家となったお父さん・正廣さんと、良家のお嬢様育ちだったお母さん・朝子さんのもと、吉田さんは、4人兄弟の末っ子(次男)として、鹿児島県大口町(現在の伊佐市)で誕生したそうです。

そして、1952年、吉田さんが6歳の時、鹿児島郡谷山町(現在の鹿児島市)に転居すると、吉田さんが小学校2年生の時までは、鹿児島郡谷山町で過ごしたそうですが、終戦後の鹿児島での暮らしは楽ではなかったそうで、

お母さんが栄養士の国家資格に合格し、広島で仕事を見つけたことがきっかけで、1955年、小学校2年生の終わり頃、吉田さんは、お母さんに連れられて、広島に転居したのだそうです。

「吉田拓郎は女性環境で育ち気持ちが歪んでいた?」に続く

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