母、姉、祖母と、女性ばかりの環境で育ったことから、子供の頃は、男らしいものにほとんど触れる機会がなく、次第に気持ちが歪んでいったのを自覚していたという、吉田拓郎(よしだ たくろう)さんですが、不在だった父親と兄の存在もまた、吉田さんの人格形成とその後の将来に大きな影響を与えたようです。

「吉田拓郎は女性環境で育ち気持ちが歪んでいた?」からの続き

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ミュージシャンになったのは兄の影響だった

吉田さんのお兄さんは、立教大学で「ジャズ研究会」に入り、独学でピアノを学んだ後、後にジャズピアニストになったそうですが、

お兄さんは、ある年、大学の夏休みに、ガールフレンドをつれて車で里帰りしたそうで、幼い吉田さん(吉田さんはお兄さんの14歳年下)は、とても都会の香りがするキレイな女性を見て、

(お兄さんは、東京のクラブでアルバイトでピアノを弾いていており、そこで知り合ったそうです)

ああ、音楽やるとこういうふうになれるのかなあ、それなら音楽やってみてもいいなあ

と、思い、後に音楽をすることにつながっていったそうで

お兄さんから音楽的な影響は受けていないものの、「音楽をやるとこんな人生が送れる」ということに影響を受けたそうです。

父親は強く学歴を求めていた

ただ、吉田さんのお父さんはというと、小学校しか出ていなかったことから、学歴に対して非常に卑屈になっていたそうで、息子たちには、強く、学歴・名声・出世を求め、特に、長男であるお兄さんへの期待は大きく、立教大学では満足できず、東大へ行くことを望むなど、立派な男になってほしいと熱望していたことから、

(お兄さんは、中学・高校は非常に偏差値の高い「鹿児島ラ・サール学園」でした)

お兄さんがピアノを始め、挙句の果てに、クラブで知り合った女性を連れて帰ってきた時には、お父さんは烈火のごとく激怒。

以来、お父さんは、お兄さんには見向きもしなくなり、今度は、次男である吉田さんに期待が注がれることになったそうですが、

今度は、その後、吉田さんまでもが歌手としてデビューすることになると、

吉田家は最悪だ。もうこの家は終わった。この家の男どもは、なんでこんなことになってしまったんだ

と、嘆き、「吉田家の崩壊」だと、ずっと言い続けていたのだそうです。

(ただ、吉田さんが大きな成功を収めた後(お父さんが他界したずっと後)、鹿児島を訪れ、お父さんの働いていた場所や生活の跡を探し回ると、当時のお父さんの知り合いの人から、お父さんが、吉田さんが初めて出版した本「気ままな絵日記」(1972)をすごく喜んで読んでいたことを聞いたそうです)


気ままな絵日記

父親と兄は「風来坊」?

そんなお父さんは、「吉田家の崩壊」だと騒ぐだけ騒ぎながら、自身は、鹿児島に一人残り、たまにフラリと東京に遊びに行ってはストリップを見て帰るだけで、父親らしいことは何一つしてくれなかったことから、吉田さんは、どこか、風来坊、放浪の男、というイメージがあったそうですが、

吉田さんのお兄さんもまた、そんなお父さんの影響を強く受け(実際、お兄さんは、そんなお父さんのことが大好きで、憧れていたといいます)、同じように、妻や子供を顧みず、本当に適当なことばかり言っていた風来坊だったそうで、

お母さんが晩年、寝たきりになった際にも、お母さんは長男であるお兄さんに面倒を看てもらいたがっていたそうですが、吉田さんが経済的に支援をし、お姉さんがそばにいて、肉体的、精神的な面倒をみていた中、お兄さんだけは一切関わらず、まるで他人事だったそうです。

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不在だった父親と兄に大きな影響を受けていた

そんなことから、吉田さんは、この似た者同士のお父さんとお兄さんを、男としても家庭人としても、まるで尊敬することができず、認めることができないでいるそうですが、

女性ばかりの環境で育つ中、不在だったお父さんとお兄さんの存在もまた、吉田さんの人格形成に多大な影響を与えたようです。

(ちなみに、お兄さんの息子は、東大を一発で合格するほど優秀だったそうで、これで、お父さんの願望が成就したのではと、吉田さんは語っています)

「吉田拓郎は少年時代は病弱でモテなかった!」に続く

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