コンテストで優勝して音楽をやめようと、「ジ・オフ・コース」として「第3回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト」に出場するも、2位に終わった、小田和正(おだ かずまさ)さんは、負けたことが悔しく、やめるにやめられなくなり、デビューしたそうですが・・・
「小田和正は大学生の時ヤマハコンテストで優勝して音楽をやめるつもりだった!」からの続き
「群衆の中で」でデビューも地主道夫が脱退
建築家を目指していたことから、そろそろ音楽をやめなくてはいけないと、(周囲からうまいと言われていたこともあり)記念にコンテストに出場して優勝してからやめようと思っていた中、まさかの2位という結果に終わった小田さんは、負けたままやめるのかと、やめるにやめられなくなり、プロの道に進む決意をしたそうで、
翌年の1970年4月(大学在学中)には、当時流行していたフォーク調の曲「群衆の中で」でデビューしたそうですが・・・
「群衆の中で」
デビュー当初はひどいヤジを飛ばされていた
翌年の1971年2月頃には、地主道夫さんが、小田さんと鈴木康博さんの音楽性についていけず、建築家になるため脱退するほか、
当初は、レコードの売上、ライブでの盛り上がり等、どれをとってもパッとせず、それどころか、ライブ会場では、よく、お客さんから「帰れ」「引っ込め」など、今では考えられないようなひどいヤジも飛ばされたそうです。
それでも、つらい、という気持ちはなかったそうで、
もっと音楽を一生懸命やらないと、もっとちゃんとできないとウケないんだ
と、思ったそうですが・・・
(無理やりではなく、すべて自分のせいだと、つくづく、そう思ったのだそうです)
(当時、お客さんから「帰れ」と言われるのは、ちょっとしたファッションになっていたそうで、吉田拓郎さんが、1971年に岐阜県中津川市で開催された「全日本フォークジャンボリー」や1972年に日本武道館で開催された「フォーク・オールスター夢の競演音搦大歌合戦」などのライブで、「帰れ、帰れ」とコールされたことは、オールドファンの間では有名です)
「かぐや姫」の前座では最後の曲でやっと終わると拍手されていた
小田さんたちは、「かぐや姫」と同じ事務所だったことから、「かぐや姫」のコンサートの前座を務めることが多かったそうで、ある時、前座で、小田さんが「じゃあ、最後の曲です」と言うと、お客さんからワーッと拍手起きたそうで、一瞬、「あっ、ちょっと ウケたのかな」と思ったそうですが、
すぐに、そうではなく、「この曲が最後でやっと終わる」という拍手と気づいたそうで、さすがに、その時はつらかったそうです。
(帰宅すると、両親が「どうだった?」と聞いてきたそうですが、「最後の曲ですって言ったら拍手がきたよ」とは両親がかわいそうで言えず、そのことが一番つらかったそうです)
「小田和正が若い頃はオフコースと大学院生の二刀流だった!」に続く