建築家を目指し、東北大学工学部建築学科に進学したという、小田和正(おだ かずまさ)さんは、音楽活動は、大学進学後も、(高校の学園祭で一緒にステージに立った)鈴木康博さんと地主道夫さんと共に続けるも、プロを目指していたわけではなかったため、記念にコンテストで優勝してやめようと思っていたそうですが、「第3回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト」では、2位に終わってしまったといいます。

「小田和正が高校の時は医師⇒建築家を目指していた!」からの続き

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大学進学後も鈴木康博と地主道夫の3人で音楽を続けていた

小田さんは、高校3年生の受験を控えた時期でも、音楽が楽しくて仕方がなく、特に、歌ってハモった瞬間は、何ものにも代えがたいほどの楽しさがあったことから、少し勉強の時間を削ってでも音楽の練習をしたいと思っていたそうで、

大学進学後も、(高校の学園祭で一緒にステージに立った)鈴木康博さんと地主道夫さんの3人で、また、ああいうことをやろうよと約束し、音楽の練習を続けていたそうです。

(小田さんと地主さんは東北大学(仙台)、鈴木さんは東京工業大学に進学したため、3人が集まるのは大変だったそうですが、小田さんと地主さんが夏休みなど仙台から東京に帰って来た時に、集中して練習し、どこかのホールを借りてコンサートをしたりしていたそうです。ちなみに、高校の学園祭で、鈴木さん、地主さんと共に一緒にステージに立った須藤尊史さんは、高校3年生の時に脱退したそうです)

ヤマハコンテストで優勝して音楽をやめるつもりだった

ただ、プロになる気はサラサラなかったことから、やがて、そろそろやめなくてはいけないと思うようになり、どうやってやめようかという話になった時、(周囲からうまいと言われていたため)自分たちがどれほどうまいのかを確かめる意味でコンテストに出場し、優勝して、それを記念にやめようということになったそうで、

1969年、大学4年生の時、学生時代の総仕上げとして、「第3回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト」に、「ジ・オフ・コース」として、東北地区より出場すると、見事、予選を通過。

(東京からではなく、東北地区から出場したのは、東京ではレベルが高く、東北の方が勝ち抜きやすそうだからと考えたそうですが、実際には、東北地区もとてもレベルが高かったそうです)

こうして、予定通り、全国大会までは進んだそうですが・・・

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「ジ・オフ・コース」として「第3回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト」に出場も2位どまりだった

全国大会では、「赤い鳥」というグループがいたそうで、これがまた演奏が上手で、小田さんはこれはやばいなと思ったそうですが、案の定、負けてしまい、「赤い鳥」が1位で、小田さんたちは2位に終わったそうで、

小田さんは、インタビューをまとめた書籍「「100年インタビュー」保存版 時は待ってくれない」で、

赤い鳥の歌う「竹田の子守唄」を聞いたとき、あんなふうに、ああいう曲をやられたら、ちょっと太刀打ちできないなと思ったね。

かっこいいという、その上のレベルの、何か心に届いてくる日本の歌だもんね。これはもう、相当にショックだっ た。そしたら、何かスッキリしなくなっちゃったわけだ。二位でやめるのかっていうのがね。

と、語っています。

(全国大会には、財津和夫さんのグループ「ザ・フォーシンガーズ」もいたそうです)

「小田和正が若い頃は客から酷いヤジを飛ばされていた!」に続く


「100年インタビュー」保存版 時は待ってくれない

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