高校2年生の時、学園祭(聖光祭)で、先輩たち4人がゴスペルのアカペラを歌っているのを聴き、翌年の「聖光祭」でステージに立つのは自分たちだと決意すると、高校3年生の時には、目標通り、ステージに立ったという、小田和正(おだ かずまさ)さんは、初ステージにして大好評を博したそうですが、この頃はまだ、薬局を経営していた両親の意向により、医師を目指していたといいます。
「小田和正は高3の学園祭で初ステージを踏むと大好評を博していた!」からの続き
高校の途中までは医師を目指していた
高校3年の時、学園祭(聖光祭)で初ステージを踏むと、大好評を博した小田さんですが、この時はまだ、音楽の道に進もうとは思っておらず、医師を目指していたそうです。
というのも、実家が薬局だったため、両親が、お兄さんには薬剤師、弟である小田さんには医師になって欲しいと思っていたからだそうですが、小田さん自身もそのつもりでいたそうで、高校の途中までは、大学は医学部に行くつもりでいたそうです。
病院の見学で建物が古くホルマリン浸けの臭いに嫌気が差し医師を目指すのをやめていた
そこで、ある時、学校の先生から、「受験するところを見学しておきなさい」と言われ、千葉大学医学部の附属病院に見学に行ったそうですが・・・
その病院は、建物が古くて陰鬱(いんうつ)で、ホルマリン浸けの臭いがして、
ああ、これ、俺は向いてないな、一生こういうところで働いていけないだろうな
と、思ったそうで、
その日のうちに、何の迷いもなく、あっさりと、医者を目指すのをやめたのだそうです。
(家に帰ってお母さんにその旨を伝えたそうですが、お母さんは「ああ、そうかい」とだけ言って、特に何も言わなかったそうです)
建築家を目指し東北大学工学部建築学科に進学
こうして、医者を目指すのをやめた小田さんは、改めて自分の将来について考えたそうですが、当時、建築業界が盛り上がっていたことや、自分が描いた絵が褒められたことがあったため、建築なら、絵を描く事とも関係があるのではと、聖光学院卒業後は、東北大学工学部建築学科に進学して建築学を専攻したそうで、授業では、課題設計をやったり、コンクリートをこねて強度の実験をするなどしていたそうですが、
小田さんは、インタビューをまとめた書籍「「100年インタビュー」保存版 時は待ってくれない」で、建築と音楽を作ることの共通点について、
建築は課題でしかやったことがなかったけれど、だいぶあとになって、曲を書きはじめたころ、たぶん 24、5歳の頃に、何もないところから落とし込んでいくということが、ああ、似てるなと思いましたね。
どうにでも始まれるんだからね。何から書いてもいいんだ。建築では、まったく何もないところから一本の線をスタートさせる。音楽も、まず何かの音から始めないと始まらないから、似ているところがあるなと。
でも、何かをつくるということは、考えてみれば、みんなそうなんだなと思った。具体的に、自分のなかでとても気持ちが重なったのは、課題設計のときにトイレとか階段をどうするか、まずはアバウトに考えるわけ。
ここにはトイレが入りそうだな、とかね。もちろん最終的には、トイレも階段もちゃんと書かなくちゃいけないわけだけど、最後に決めることが多かった。
これを音楽づくりで考えると、たとえば、「ラブ・ストーリーは突然に」という曲では、サビにいくときに、「たぶん、もうすぐ、雨もやーんでふーたり、たそーがれ」とやって、「あーの日」といくときに、こう音が上がっていくところがある。
そこが、どうも最後まではっきり決まらなくて。そんなふうに、最後に決めればいいやってなることが多かったわけだよね。そうしたら、なんだか、階段とかトイレに似てるなと思って。そこを考えるときの気持ちがね。
だから、自分で勝手に、ああ、何かつくるというのは似てるんだなと思いましたね。いまはもう、階段とかトイレとか、あまり思わなくなったけど。
と、語っています。
「小田和正は大学生の時ヤマハコンテストで優勝して音楽をやめるつもりだった!」に続く