「白い巨塔」「華麗なる一族」「不毛地帯」「沈まぬ太陽」などの名作を世に送り出した、作家の山崎豊子(やまさき とよこ)さん。作品は、一貫して社会の矛盾を追求し、徹底した取材で、物語にリアリティを与えていることが特徴です。


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毎日新聞社に就職

山崎さんは、1924年、
大阪府大阪市南区(現在の中央区)に生まれ、

旧制京都女子専門学校(現在の京都女子大学)を卒業後、
毎日新聞社に入社されました。

山崎さんが幼い頃は、
日本は軍国主義一色だったため、
軍需工場で働かされており、

もともとは、教員になりたかったそうですが、
戦争の影響で、教員の職はなく、

かといって、就職しなければ、
軍需工場で引き続き働かなければならない、

それが嫌で、
新聞社に就職したのだそうです。

新聞記者から作家へ

山崎さんは、1945年に、
学芸部に所属されると、

当時の学生副部長だった井上靖さんのもとで、
記者としての訓練を受けられます。

そして、井上さんに勧められ、
1957年、「暖簾」で作家デビュー、

翌年の1958年に発表された、
「花のれん」では、なんと、早くも、
直木賞を受賞されたのでした。


舞台「花のれん」での中村玉緒さんと山崎さん。

山崎さんは、直木賞受賞後は、
毎日新聞社を退社され、作家活動に専念。

それ以降は、

1959年「ぼんち」
1961年「女の勲章」
1963年「白い巨塔」

1970年「華麗なる一族」
1976年「不毛地帯」
1980年「二つの祖国」

1987年「大地の子」
1995年「沈まぬ太陽」
2005年「運命の人」

など、次々と、
社会派の作品を発表されています。

暖簾

ところで、山崎さんのデビュー作「暖簾」は、
山崎さんの実家の昆布屋を舞台に、
親子二代に渡る、大阪商人の姿を描いた作品です。

山崎さんは、毎日新聞社時代の、
上司、井上靖さんに、

自分の生い立ちと家のことを書けば、
誰だって一生に一度は書ける。

と、小説を執筆することを勧められ、

実家のお父さんとおじいさんをモデルに、
この小説を書かれたそうです。

完成までに、なんと、
7年の歳月を費やすほどの力作で、

出版されると、舞台化、映画化されるほど、
反響を呼びました。

花のれん

その後、山崎さんは、
吉本興業の創業者、
吉本せいさんをモデルにした「花のれん」で、

2作目にして、いきなり、
直木賞を受賞されています。

当のご本人でさえ、
受賞するとは思っていなかったので、
大変驚かれたのだとか。

山崎さんは、
この受賞をきっかけに、会社を辞め、
作家として生きていく決意をされたのでした。

綿密な取材

山崎さんの作品は、
1959年の「ぼんち」などをはじめ、

初期の頃は、大阪、船場を、
舞台にしたものが多かったのですが、

次第に、「白い巨塔」「華麗なる一族」
「不毛地帯」
などのような、
社会派の作品を発表されるようになります。

山崎さんの作品は、
どれも、綿密な調査が特徴で、

新聞社時代、井上さんは、
そんな山崎さんの才能を見抜かれ、

よく、企画物の調査記事を、
任せたと言われています。

もともと持っていた素質を、
新聞社時代に磨かれたのでしょう。

「とことん、調べて書く」というのが、
山崎さんのスタイルとして定着したのでした。

山崎さんは、生前、

「私の作品は、取材が命」

と、おっしゃっており、

それを証明するかのように、
取材は1日4~5カ所、

しかも、一度のインタビューが、
2時間に及ぶことも多かったそうです。

山崎さんの取材に同行されたことがある、
小田慶郎さんは、
山崎さんの取材について、

取材相手の話に引き込まれると、
山崎先生は、涙を流すほど話の中身に没入する。

先生の熱意の純粋さに、相手は心を動かされ、
「そんなに熱心なら、もっとしゃべろうか」と口を開きだす。
「聞かれる喜び」を感じるようになるのです。

と、語っておられました。

白い巨塔の取材では

そして、「白い巨塔」の取材では、
専門医に話を聞くために、
医学書を何十冊も読まれたのだとか。

しかも、それだけではなく、
世界屈指のがん研究所がある、
ドイツにまで取材に訪れたというのです。

そこの研究者が、

「作家なのに、なんでそんなに調べているんだ」

と驚かれたほどだったとか。

山崎さんは、

「勉強しないと専門医に質問できないから」

と、答えられたそうです。

その結果、聖域と言われた医学界である、
大学病院の内部を鋭くえぐりだしたこの作品は、

映画化されたうえ、
何度かテレビドラマ化されるなど、
大きな反響を呼んだのでした。

その他にも、
神戸銀行(現在の三井住友銀行)をモデルとした、
「華麗なる一族」では、400人に取材を行い、

また、戦争の不条理を書いた「大地の子」では、
3年間中国に住み、監獄で、囚人たちと、
労働までしたというのです!

さらに、新聞社時代の、
同僚や、キャリア官僚、大手企業などのツテを頼り、
取材をされていたとのことで、

山崎さんの作品作りには、
「情熱」という生易しいものではなく、
「執念」のような凄まじさを感じます。

多くのトラブル

山崎さんの作品は、
実際の団体、人物をモデルとした、
綿密な調査のおかげで、
リアリティが持ち味となっているのですが、

そのせいで、モデルとなった対象との、
軋轢(あつれき)も多かったそうです。

また、盗作疑惑もたびたびあり、
裁判に発展したケースもあったのだとか。

そのことで、山崎さんは、
所属していた日本文芸家協会を、
一時期、除名されたこともあったのですが、

それでも、山崎さんは、
ご自分のスタイルを変えることはなく、
不屈の精神で、挑み続けられたのでした。

許すことのできない社会の不条理

山崎さんが、なぜここまでして、
社会の不条理に切り込まれたのか、

それには、少女時代の体験が、
大きく影響していました。

当時、日本は軍国主義だったため、
山崎さんは、軍需工場で働いていたのですが、

本当は、読書や勉強が好きな、
女の子だったそうです。

しかし、そんな山崎さんが、
バルザックの「谷間の百合」を読んでいると、

見つかってしまい、
気を失うほど、殴られたことがあったそうです。

もっと、勉強がしたい、
もっと、本が読みたい、

そんな素朴な願いさえも、
戦争がすべてを奪って行ってしまったのでした。

山崎さんは、そのことについて、

私には、青春を奪った横暴な国家というものを許さん、
という思いがしみこんでいます。
泣きみそ(泣き虫)ですが気が強いんです。

私は学徒動員の話になるとダメなんです。
思いが年とともに強くなって、

あの時、死んだ彼女が生きていたら、
今、いくつでどうしているだろうと。

私には、若くして死んでいった、
人間たちへの責任があります。
だから、半世紀も作家を続けてこられたのです。

と、語っておられました。

国家の不条理を許すことができない、
そんな憎しみとも言える、強い想いが、

山崎さんを、権力や組織の矛盾に挑む、
作家としての活動に駆り立てていたのでした。

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晩年

こうして、精力的に、
執筆活動をこなされていた山崎さんですが、

2003年頃から、
原因不明の全身の痛みに悩まされ、
晩年は車いすの生活を余儀なくされています。

体調さえ回復すれば、
これから取り組みたいテーマはいくつもありますが・・・

と、まだまだ執筆に意欲を見せておられ、

2005年から2009年までは、
「運命の人」を執筆。

同年、この作品は、
「毎日出版文化賞特別賞」を受賞されています。

そして、2013年8月からは、
週刊新潮で、新作「約束の海」の連載を開始。

しかし、体調不良で入院され、
9月に呼吸不全で亡くなっています。

「原稿用紙と万年筆を持ったまま棺に入る」

と、生前語っておられた通り、
山崎さんは、小説を書くことに命を捧げられたのでした。

創作意欲とは裏腹に、
無念にも、道半ばで亡くなった山崎さんですが、

その魂は、残された作品のなかで
永遠と生き続けるに違いありません。

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