「仁義なき戦い」という画期的な題材に惚れ込み、過去に決裂していた脚本家の笠原和夫さんとの因縁や、「京都撮影所」の反発など、様々な障壁を乗り越え、ようやく撮影開始にこぎつけた、深作欣二(ふかさく きんじ)さん。今回は、その「仁義なき戦い」における、撮影秘話をご紹介します。

「深作欣二の仁義なき戦いとの出会いは?浅間山荘事件がきっかけ?」からの続き

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監督自らカメラを担いで撮影していた

すったもんだあって、ようやく撮影が開始されたものの、依然、「京都撮影所」側は、深作さんの制作方法に理解を示さなかったそうで、

「仁義なき戦い」シリーズに出演されていた曽根晴美さんによると、深作さんが、「京都撮影所」側のカメラマンの吉田貞次さんに、手持ちカメラで走り回るように撮影してくれと頼まれるも、吉田さんは、そんなことはできないと拒否。

(深作さんは、撮影に、東京から親しいカメラマンだった仲沢半次郎さんを連れて行こうとするも、京都撮影所側がこれを拒否していたため)

仕方なく、深作さんは、自らカメラを担いで撮影を始められたそうで、さすがに、その姿を見た吉田さんは唖然としたそうですが、

やがて、吉田さんも、深作さんの熱意や制作姿勢に理解を示し始め、最終的には、二人三脚で撮影を乗り切られたのだそうです。

走っている電車を止めることを要求?

また、曽根さんは、「仁義なき戦い 完結篇」で、兵庫県尼崎市の踏切で電車を通過待ちしている、天政会・松村保会長(北大路欣也さん)と江田省一副会長(山城新伍さん)を襲撃するヤクザの一人を演じられているのですが、

曽根さんによると、その際、踏切での撮影許可を取っていなかったため、(通常通り)2分くらいで電車が通過してしまうことに対し、深作さんは、

電車を止めろ

と、無茶なことを言い出すこともあったそうです。

(曽根さんは、深作さんの監督デビュー作「風来坊探偵 赤い谷の惨劇」で準主役として出演されていて、その後も数多くの深作作品に出演し、「仁義なき戦い」シリーズにも出演されていたのですが、「仁義なき戦い 完結篇」では声がかからず。ただ、尼崎市出身の曽根さんが、山城さんと北大路さんを襲撃する場所が尼崎だと聞き、やらせてほしいと頼んで出演となったそうです)

2ヶ月間不眠不休だった?

また、同様に「仁義なき戦い」シリーズに出演されている、松方弘樹さんは、

深作欣二監督が脂の乗り切っている頃で、熱気がありました。祇園で朝まで飲んで、それで『お前ら寝るな』って言うんです。なぜか聞いたら『明日の撮影は目が赤い方がいいんだ』って言うんですよ。

多分、2か月は寝てないですよ。それでも平気なくらい集中していました。だから画にも力が出てくる。監督さんというのはスタッフ・キャストを引っ張っていく現場監督ですから、パワーが必要なんです。

と、深作さんの驚くべき情熱を明かされていました。

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大部屋俳優「ピラニア軍団」も使いこなす

そんな深作さんは、当時、干されていた室田日出男さんや、なかなか芽が出ず、くすぶっていた川谷拓三さん、滋賀勝さんら、「京都撮影所」の大部屋俳優(後の「ピラニア軍団」)も起用されると、

初めて東映京都撮影所で演出した際、殺陣師や擬斗師がいるにもかかわらず、大部屋俳優たちに自ら殺陣や擬斗を細かく指示したそうで、

大部屋俳優たちの出演シーンにも綿密にリハーサルをする姿に、大部屋俳優たちは一様に驚いたそうです。

そこで、打ち上げの時、大部屋俳優の一人だった、福本清三さんが、

スターさんにあまり言わないで、なぜわしら(大部屋俳優)に細かく指示するのか? 自分たちは撃たれる時も殺される時も、かっこよくできる。

と、思わず質問すると、

深作さんは、

(大部屋俳優には)台本も渡されてないから、なぜ殺されるのか、殺された後、組がどうなるか、状況や背景を説明してるんだよ。

映画はスターだけじゃなく、映っているみんなが主役なんだ。スターさんがどんなに一生懸命でも、スクリーンの片隅にいる奴が遊んでいたら、その絵は死んでしまう。

だから同じ子分でも、それぞれが個性を出して殺されてほしいから、うるさいだろうけど、細かく指示を出すんだよ。

と、諭されたとのこと。

これを聞いた福本さんは、「この人、ただもんでないわ」と唸(うな)り、それまで大部屋俳優として幾度となく殺されてきたため、「慣れ・自信・奢(おご)りがあったかもしれない」と、反省したそうで、

福本さんはこれ以降、与えられた役をとにかく一生懸命にやろうと思うようになり、そういう意味でも、「仁義なき戦い」は自身にとって転機となったと語っておられました。

また、福本さんは、

(一般的に)監督は大部屋俳優の名前を覚えてくれず、『そこ』、『おい』程度でしか呼ばれないが、深作監督はわしら大部屋俳優でも名前で呼んでくれた。

とも、語っており、

深作さんが大部屋俳優たちに対しても、いかに熱い気持ちをお持ちだったことが分かります。

こうして、1973年1月、「仁義なき戦い」が正月映画として公開されると、大ヒット。

以降、シリーズ化されて、全5作が製作されているのですが、1999年に発表された「映画人が選ぶオールタイム・ベスト100 日本映画篇」では歴代8位、2009年の「オールタイム・ベスト映画遺産200 日本映画篇」では歴代5位に選ばれるなど、「仁義なき戦いシリーズ」は、邦画史に燦然と輝く名作となったのでした。

「深作欣二のバトルロワイヤルほか監督作品を画像で紹介!」に続く

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