1959年、映画「ひばり捕物帖 振り袖小判」で死体役でデビューされると、その後も、「斬られ役」「殺され役」として重宝された、川谷拓三(かわたに たくぞう)さん。今回は、そんな川谷さんの、生い立ちからブレイクまでの経緯についてご紹介します。

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年齢は?出身は?身長は?本名は?

川谷さんは、1941年7月21日生まれ、
高知県安芸市のご出身、

身長160センチ、

血液型はA型、

学歴は、
市立安芸中学卒業、

本名は「仁科拓三」で、愛称は「拓ボン」

ちなみに、川谷さんは、四男一女の三男だったそうです。

父母

川谷さんのお父さんは、日活の映画カメラマンだった川谷庄平さんで、1915年、17歳の時に、カメラ助手として「日活京都」に入社されると、牧野省三監督作品や、歌舞伎役者で俳優の尾上松之助さんの映画のカメラマンとして活動。

1927年に日活を退社するまでに、(主に築山光吉さんとのコンビで)なんと、237本もの映画を撮影されたそうです。


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また、お母さんは女優の山路二三子さん、義母(奥さんのお母さん)は女優の岡島艶子さん、大叔父(実母の叔父)は俳優の伊沢一郎さんという、俳優一家だったそうです。

少年時代は映画館でアルバイト

さて、川谷さんは、満州新京(長春)で、四男一女の三男として生まれると、終戦後の1947年、6歳の時に、川谷さん一家は満州から引き上げ、高知県安芸市(当時・安芸郡安芸町)に移り住まれます。

ただ、当時、お父さんには定職がなかったため、お母さんが市内の映画館「太平館」の自転車預かり所で働き、生計を支えられたそうです。

その後、川谷さんは、小学校3年生の時、お母さんの職場である、映画館「太平館」に出入りするようになり、放課後には、ポスター貼りや看板のかけかえ、夜には、自転車預かりをしながら、映画を親しむようになったそうです。

美空ひばり主演映画の死体役でデビュー

そして、中学に入学したての頃、川谷さんは、マーロン・ブランド主演のアメリカ映画「乱暴者(あばれもの)」を観て、マーロン・ブランドに憧れると、映画俳優になることを決意。


「乱暴者(あばれもの)」より。マーロン・ブランド

中学卒業後の1957年4月には、京都へ向かい、(その後の経緯は不明ですが)1959年秋、「エキストラ・グループ」に入られると、美空ひばりさん主演の東映映画「ひばり捕物帖 振り袖小判」の死体役でデビュー。

それから半年後の1960年4月には、「東映京都撮影所」の大部屋俳優として、東映と専属契約されると(日当250円だったそうです)、「斬られ役」「殺され役」専門で、1日に3回も死体役を演じられます。

そして、1964年、映画「三匹の浪人」あたりから役らしい役がつきはじめ、1967年、ようやく「日本侠客伝・斬り込み」で、マキノ雅弘監督から初めてセリフをもらわれます。

(あるベテラン監督によると、川谷さんは、身体が堅く演技が下手だったため、死体の役がちょうど良かったそうです)

ちなみに、この頃、川谷さんは、エキストラだけでは生活することができず、氷屋でアルバイトをされていたそうですが、

絶対にスターになったるねん!

と、周りに宣言されていたそうです。

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鶴田浩二の付き人に

そんな下積み生活の中、実は、川谷さんの一番上のお兄さんが「ガン」で余命宣告を受けていたそうで、お兄さんが鶴田浩二さんの大ファンだったことから、両親は、何とか鶴田浩二さんにお見舞いに来てもらえないものかと川谷さんに懇願したそうです。

ただ、いくら、同じ「東映」所属とはいえ、一介の大部屋俳優に過ぎない川谷さんが、大スターの鶴田さんに声をかけることなど、とてもできるものではないところ・・・

病気に苦しむお兄さんをなんとかしてやりたい、との両親の気持ちが痛いほど分かった川谷さんは、意を決して、会合でお酒を飲んでいた鶴田さんの席へ行き、

自分の兄が死にそうなんです。兄は鶴田先生の大ファンなんです。どうしても死ぬ前に先生に会いたがっているんです。どうか兄に一目会ってもらえませんでしょうか。お願いします!

と、頭を下げられると、

鶴田さんは、

ワシの顔見て、死んで行けるんならそれも供養や。行ってやるよ。

と、そのまま、お兄さんの入院する病院へ駆けつけてくれたそうで、

鶴田さんと会うことができたお兄さんは、それから数時間後、穏やかに息を引き取られたのだそうです。

そして、このことが縁で、川谷さんは、鶴田さんの付き人になられると、鶴田さんの主演映画で端役のチンピラ役をもらい、新境地を開拓されたのでした。

「川谷拓三の仁義なき戦いほかやられ役(リンチ)が壮絶過ぎる!」に続く

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