映画、舞台、テレビドラマ、バラエティー番組と、幅広く活躍された、山城新伍(やましろ しんご)さん。今回は、そんな山城さんの生い立ちについてご紹介します。

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年齢は?出身は?身長は?本名は?

山城さんは、1938年11月10日生まれ、
京都府京都市上京区のご出身、

身長174センチ、

血液型はO型、

学歴は、
京都市立翔鸞小学校
⇒京都市立衣笠中学校
⇒京都府立山城高等学校卒業

趣味は、
読書、映画観賞、パソコン、文章執筆、プロ野球観戦、ラグビー観戦、

特技は、コマ回し、

ちなみに、本名は「渡辺 安治(わたなべ やすじ)」です。

実家は被差別部落で開業医

山城さんの実家は、代々、醤油の醸造元だったそうですが、お父さんは、お店を継がずに医者になり、京都府京都市で開業。

山城さんは、そんな開業医だったお父さんと看護婦だったお母さんのもと、近所に遊郭がある繁華街「千本」(千本釈迦堂の近くだったことから)というところで、2人兄弟の長男として生まれ育ちます。

実は、この「千本」の周辺は、被差別部落や在日韓国・朝鮮人の部落で、お父さんは、そのど真ん中で医院を開いていたのですが、

部落の患者さんのため、雨の日も風の日も往診に行くほか、誰かに何かあれば、夜中でもすぐに患者さんのもとへ駆けつけるような医者だったそうで、

貧しく、治療代が払えない患者さんには、

治療代いらんから、ワシの浄瑠漓聞いてくれ

と、迫り(笑)、治療代の代わりに米や野菜をもらってくることもあるなど、生活は少しも潤わなかったことから、

山城さんは、

こんな割に合わない仕事はない

と、貧乏医者だったお父さんを見て、医者を継ぐ気にはならず、全く医者になる努力をしなかったそうです。

父親に捧げる「現代・河原乞食考」を著作

その後、いつ頃かは不明ですが、お父さんは、「糖尿病」を患い、さらには、「結核」にもかかり他界されているのですが、お父さんのお葬式にはたくさんの人が集まったそうで、山城さんは、お父さんがこんなにも慕われていたことにびっくりされたそうです。

また、山城さんが、その後、俳優となり、撮影で京都に戻った時にも、地元の人達から、「ぼん」「安っさん」と声をかけられ(山城さんの本名は「安治」(やすじ))、

誰かな、と思っていると、昔、お父さんの医院の待合室で会った人達だったことを思い出し、その人達と話をするうちに、「あんたの親父さんに治してもらった跡や」と、いきなり、傷口を見せてくれたこともあったそうで、

やがて、そんな患者さんの姿を見ることがうれしくなり、また、

おやじっていうのは偉い人だったな

と、気づかれたそうです。

(山城さんは、1997年、お父さんの記録を残しておきたいと、自伝的エッセイ「現代・河原乞食考」を発売。2000年には、この「現代・河原乞食考」を原作とする映画「本日またまた休診なり」で監督を務め、亡きお父さんに捧げられています。)


現代・河原乞食考―役者の世界って何やねん?

おばあちゃん子だった

さて、そんな山城さんは、大変なおばあちゃん子だったそうで、小学校時代、おばあちゃんが、

冷や飯食ってる者はろくな者じゃない

と、毎日、お昼に、炊きたてのご飯をつめたお弁当を学校まで持ってきてくれるほか、小学校卒業まで、おばあちゃんと一緒に寝ていたのだそうです。

小学生時代は悪ガキだった

一方、小学校時代の山城さんは、口喧嘩が得意のガキ大将だったそうで、遊び場としていた千本釈迦堂の境内では、なんと、慰霊塔に入って中の骨をザクザク踏むほか、

小学校の修学旅行で宿泊した伊勢の宿では、いたずらでスリッパを何十足も盗み、後で先生の知るところとなり、詫び状を書いて、京都から宿屋まで返しに行ったこともあったそうです。

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映画館に入り浸っていた

また、近所には、お父さんの患者さんの映画館があったのですが、お父さんの治療代と交換で顔パスで入場できたことから、

小学生時代は、毎日のように映画館に入り浸っては、メモを取りながら観ていたそうで、撮影所に遊びに行っては、エキストラとして出演し、お小遣いを稼いでいたそうです。

「山城新伍の若い頃は白馬童子でブレイクし東映人気NO1だった!」に続く

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