1971年、「ザ・タイガース」が解散した後は、沢田研二さん、萩原健一さんとともに、ニュー・ロック・バンド「PYG」で活動を始めた、岸部一徳(きしべ いっとく)さんですが、またもや「渡辺プロダクション」所属を余儀なくされ、そのことが原因で、バンド活動は困難を極めます。
「岸部一徳は沢田研二を誘い萩原健一らと「PYG」を結成していた!」からの続き
本格的なロックを目指すもまたもや「渡辺プロダクション」所属に
1971年、「ザ・タイガース」解散後は、沢田研二さんを誘い、ニュー・ロック・バンド「PYG」として、本格的なロックを目指した岸部さんですが、
「ザ・タイガース」時代の所属事務所「渡辺プロダクション」は、事務所に沢田さんを残すことが最重要事項だったため、新バンド「PYG」も「渡辺プロダクション」に所属させるという条件で設立を認め、「PYG」やメンバーのマネージメントを行う子会社「渡辺企画」まで設立。
つまり、岸部さんたちは、真剣に音楽をやりたいメンバーで、本格的な新しいロックを追求することが目的で結成したにもかかわらず、またもや、「渡辺プロダクション」によって、(商業至上主義で)沢田さんと萩原さんのツイン・ヴォーカルで売り出されることになったのです。
ライブ中に沢田研二と萩原健一のファンが互いに嫌がらせの応酬
こうして、「PYG」は、
ジュリーとショーケンの2大アイドルスターによるツインボーカル
として、大大的に売り出されると、大きな話題となり、それなりにコンサートも盛り上がりを見せたのですが・・・
実際には、沢田さんが歌唱中には、萩原さんのファンがタンバリンをたたいて妨害し、萩原さんが歌唱中には、沢田さんのファンが大声でおしゃべりを始めるなど、客席では、それぞれのファンが嫌がらせの応酬を繰り広げており、
岸部さんによると、お互いのファンのライバル意識がネックとなり、コンサートの客足もそれほど伸びなかったのでした。
(実際、2枚組ライブアルバム「FREE with PYG」では、沢田さんが、「アイ・ゴナ・リーヴ・ユー」の歌唱中、萩原さんのファンに対し、「タンバリンやめて!」と呼びかける声が収録されているそうです)
硬派なロックファンから猛烈なバッシングを浴びる
また、「PYG」は、1971年3月、京都大学西部講堂で行われたロックフェスティバル「第1回 MOJO WEST」で、初めて公の場に登場しているのですが、
当時の硬派なロックファンには、ロック=反「体制(権力)」の音楽という図式があったことから、芸能界最大手(つまり「体制(権力)」側)だった「渡辺プロダクション」所属の「PYG」は、「体制(権力)的商業主義」とみなされて、観客から受け入れられず、
観客からは、
儲かったら何でもありか
お前ら、GS(グループサウンズ)の寄せ集めじゃないか!
商業主義の手先は帰れ!
芸能界が創り出したロックなんてまがいもの
と、その嫌悪感から猛烈な批判を浴び、会場は大混乱。
共演者の内田裕也さんが聴衆を説得し、なんとか収拾したそうで、
さらに、同年4月に日比谷野外音楽堂で開催された 「日比谷ロック・フェスティバル」でも、「帰れコール」を浴びせられたほか、ステージには、石、トマト、空き缶が投げつけられるなど大騒ぎとなったのだそうです。
「岸部一徳は昔レッドツェッペリンのベーシストに絶賛されていた!」に続く