1969年9月、「ヴァレンタイン・ブルー」(後に「はっぴいえんど」)に加入すると、1970年代は、「はっぴいえんど」のヴォーカル兼ギターとして活躍した、大瀧詠一(おおたき えいいち)さん。

そんな大瀧詠一さんは、歌を歌うことが好きだったお母さんの影響により、幼い頃から流行歌に親しんで育つと、小学5年生の時には、ラジオでコニー・フランシスの「カラーに口紅」を聴いてアメリカンポップスに傾倒するようになったそうで、

以降、音楽に夢中になり、高校1年生の時には、授業料を全部レコード代につぎ込み、学費未納により1年で高校を退学させられたといいます。

今回は、大瀧詠一さんの驚くべき生い立ち(幼少期から「ヴァレンタイン・ブルー」加入まで)をご紹介します。

大瀧詠一

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大瀧詠一のプロフィール

大瀧詠一さんは、1948年7月28日生まれ、
岩手県江刺郡梁川村の出身、

身長176センチ、

血液型はAB型、

学歴は、
岩手県立花巻北高校
⇒岩手県立釜石南高校(現・岩手県立釜石高等学校)編入
⇒早稲田大学第二文学部中退

ちなみに、大瀧詠一さんの本名は「菊池榮一」なのですが、大瀧詠一さんは母子家庭で育ったそうで、(事情は不明ですが)大学時代まで父親の姓である「菊池」を名乗り、その後、母親の旧姓「大瀧」を名乗るようになったそうです。

大瀧詠一が幼い頃は母子家庭で育っていた

大瀧詠一さんは、小学校の養護教諭をしていたお母さんのもと、一人っ子として誕生すると、母子家庭で育ったそうで、幼い頃は、たびたび、お母さんの勤務する小学校や、教職員旅行に連れて行かれたそうです。

(お母さんの仕事は転勤が多く、大瀧詠一さんは小学校入学から高校卒業までの間に6回も転校したそうで、入学した学校を卒業したことはなかったそうです)

大瀧詠一は母親の影響で幼い頃から流行歌を聴いて育っていた

また、大瀧詠一さんは、お母さんが歌を歌うことが好きだったことから、その影響を受けて、三橋美智也さんや春日八郎さんのレコードをよく聴き、春日八郎さんの「お富さん」という曲を口ずさんだりしていたそうです。

そして、大瀧詠一さんは、お母さんの歌の練習にも付き合わされたほか、家では、しばしば、親戚のおばさんたちが流行歌の本を持って集まり、「のど自慢大会」が行われ、その際、司会をやらされたそうで、大瀧詠一さんも流行歌のほとんど歌えるようになったそうです。

大瀧詠一は小学校5年生の夏にラジオでコニー・フランシスの「カラーに口紅」を聴き衝撃を受けていた

そんな大瀧詠一さんは、小学5年生の夏には、ラジオでコニー・フランシスの「カラーに口紅」(Lipstick On Your Collar) を聴いて衝撃を受けたそうで、

レコードを買ってもらうと、擦り切れるほど聴き、以降、アメリカンポップスに深く傾倒するようになったそうです。

大瀧詠一は中学時代エルヴィス・プレスリーの虜になる一方で植木等の「スーダラ節」にも夢中になっていた

そして、中学進学後は、音楽を聴きたい一心で、ラジオクラブに入部すると、先生がステレオを作ってくれ、米軍極東放送 (FEN) やニッポン放送の番組も聴けるようになったそうで、

(自分でラジオを作ったという話も)

その後、米軍極東放送 (FEN) から流れてきたエルヴィス・プレスリーの曲を聴き、エルヴィス・プレスリーの虜(とりこ)になると、

アメリカのヒットチャートを日夜記録し、独自のチャートを作成するほか、ラジオの録音にも勤しむなど、ますます音楽にのめり込んでいったのだそうです。

一方、大瀧詠一さんは、小林旭さんや三橋美智也さんなども好んで聴いたそうで、中でも、お笑いと音楽がコラボレーションした「クレージーキャッツ」の植木等さんが歌う「スーダラ節」を夢中になって聴いたそうです。

大瀧詠一は高校を1年で退学させられていた

そんな大瀧詠一さんは、1964年、岩手県立花巻北高校に入学すると、下宿で1人暮らしを始めたそうですが・・・

授業料を全部レコード代につぎ込んでしまったそうで、学費未納により1年で高校を退学させられてしまったそうです。

大瀧詠一は高校2年生の時にビートルズタイプのバンド「スプレンダーズ」を結成

その後、大瀧詠一さんは、高校2年生から、岩手県立釜石南高等学校(現・岩手県立釜石高等学校)に編入すると、友達がギターを貸してくれ、初めてギターを弾いたそうですが、

うまく弾けずに3日で断念し、ドラムに転向したそうで、こたつの上に漫画雑誌を置いて叩いて練習したそうです。

そして、その後、初めて(「ビートルズ」タイプの)バンド「スプレンダーズ」を組むと、ドラムを担当したそうですが、学校の「卒業生を送る会」で、ヴォーカルとして「イエスタデイ」を披露したところ、大絶賛されたのだそうです。

(大瀧詠一さんは、本当は、お笑い好きだったことから、コミックバンドをやりたかったそうですが、同志が見つからず、やむなくビートルズタイプのバンドを組んだのだそうです)

大瀧詠一は高校3年生の時に作曲を始めるとやがてDJや音楽評論家に憧れるようになっていた

また、大瀧詠一さんは、高校3年生の時には、ギターが少しは弾けるようになったことから、作曲を始めたそうですが、

やがては、歌をいっぱい知っていたことから、将来は、深夜放送のディスクジョッキーや音楽評論家になりたいと思ったのだそうです。

(ミュージシャンになろうとは思っていなかったそうです)

大瀧詠一は大学受験に失敗し予備校に通うも学費をレコードにつぎ込んでいた

そんな大瀧詠一さんは、1967年春には、上京し大学受験をするも、不合格となってしまったことから、そのまま、予備校に通うことになったそうですが・・・

予備校にはほとんど通わず、ここでも、学費をレコード代につぎ込んでしまったそうです。

大瀧詠一は18~19歳の時に製鉄会社に就職するも上司の勧めに従い在籍3ヶ月で退職していた

そこで、大瀧詠一さんは、仕方なく、小岩の製鉄会社に就職したそうですが、船橋ヘルスセンターで会社の慰安会が行われた際、大瀧詠一さんが余興でビートルズの「ガール」をアカペラで歌ったところ、

上司から、

うまい

君は会社に勤めるような人ではない

などと諭され、退職を促されたそうで、

大瀧詠一さんは、在籍3ヶ月(しかも、その間、出社したのは20日ほど)で退職したのだそうです。

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大瀧詠一は21歳の時に細野晴臣に誘われて「ヴァレンタイン・ブルー」に加入

そんな大瀧詠一さんは、この年(1967年)の夏に、布谷文夫さんと知り合い、「タブー」というバンドを結成して、ドラムを担当したそうですが、同年末に解散となったそうです。

ただ、1968年4月、19歳の時、早稲田大学第二文学部に入学すると、まもなく、布谷文夫さんを通じて交友があった中田佳彦さんから紹介された細野晴臣さんと意気投合したそうで、

細野晴臣さんに誘われ、大学在学中の1969年9月、21歳の時、(細野晴臣さんと松本隆さんが計画していた新バンド)「ヴァレンタイン・ブルー」に加入したのでした。

(細野晴臣さんは「エイプリルフール」というバンドで活動していたのですが、解散直前に、「ヴァレンタイン・ブルー」の結成を計画していたのだそうです)

「【画像】大瀧詠一のデビューは?はっぴいえんど時代までの代表曲や経歴を時系列まとめ!」に続く

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