1970年、「はっぴいえんど」としてデビューを果たすと、以降、40年以上に渡り音楽活動を続け、2013年に他界された、大瀧詠一(おおたき えいいち)さん。
今回は、そんな大瀧詠一さんの、妻、子供(息子と娘が1人ずつ)、娘婿で音楽プロデューサーの坂口修さんについてご紹介します。
「大瀧詠一は松田聖子の「風立ちぬ」を「A LONG VACATION」と対になるよう制作していた!」からの続き
大瀧詠一の妻は?
大瀧詠一さんは、1972年7月、看護師の静子さんという女性と結婚しています。
大瀧詠一さんは、プライベートをほとんど明かしていないため、静子さんとどのように知り合い、いつ頃から交際して、どのような経緯で結婚に至ったかは不明です。
ただ、大瀧詠一さんは、アルバム「A LONG VACATION」制作中、松本隆さんが作詞をした「カナリア諸島にて」にメロディをつけて歌入れしたデモテープを家に持ち帰った際、これを奥さんが気に入り、以降、奥さんは毎日聴いていたそうで、
大瀧詠一さんは大変驚きつつも、今度のアルバム「A LONG VACATION」は間違いなく売れるはずだと、ヒットを確信したのだそうです。
(ただ、奥さんは、大瀧詠一さんが後に設立したレーベル「ナイアガラ」以降の作品は聴かなかったそうです)
大瀧詠一の息子は大瀧詞巧
大瀧詠一さんは、奥さんとの間に息子さんと娘さんが1人ずつおり、息子さんは、大瀧詞巧(おおたき しこう)さんと言うそうで、
1975年にリリースされた大瀧詠一さんのアルバム「NIAGARA MOON」の中の楽曲「三文ソング」には、当時2歳だった大瀧詞巧さんの「サッチモォ、アハッ」という声が入っているそうです。
そんな大瀧詞巧さんは、現在は、大瀧詠一さんの原盤管理に携わっているそうです。
大瀧詠一さんの息子の大瀧詞巧さん。
大瀧詠一の娘は?
また、娘さんについては、全く情報がないことから、芸能関係者ではなく、一般人だと思われます。
大瀧詠一の娘婿は音楽プロデューサー・音楽評論家の坂口修
ただ、大瀧詠一さんの娘婿は、音楽プロデューサー・音楽評論家の坂口修さんで、坂口修さんは、大瀧詠一さん他界後は、「ナイアガラ・エンタープライズ」を継承しているといいます。
また、坂口修さんは、2018年11月3日に発売された、インディーズ系アーティストたちが大瀧詠一さんの楽曲をカバーしたトリビュートアルバム「大瀧詠一 Cover Book -ネクスト・ジェネレーション編-「GO! GO! ARAGAIN」」で、プロデューサーを務めています。
さて、いかがでしたでしょうか。
大瀧詠一さんの、
- 大瀧詠一の生い立ちは?幼少期は?高卒後は大学受験に失敗し就職していた!
- 大瀧詠一のプロフィール
- 大瀧詠一が幼い頃は母子家庭で育っていた
- 大瀧詠一は母親の影響で幼い頃から流行歌を聴いて育っていた
- 大瀧詠一は小学校5年生の夏にラジオでコニー・フランシスの「カラーに口紅」を聴き衝撃を受けていた
- 大瀧詠一は中学時代エルヴィス・プレスリーの虜になる一方で植木等の「スーダラ節」にも夢中になっていた
- 大瀧詠一は高校を1年で退学させられていた
- 大瀧詠一は高校2年生の時にビートルズタイプのバンド「スプレンダーズ」を結成
- 大瀧詠一は高校3年生の時に作曲を始めるとやがてDJや音楽評論家に憧れるようになっていた
- 大瀧詠一は大学受験に失敗し予備校に通うも学費をレコードにつぎ込んでいた
- 大瀧詠一は18~19歳の時に製鉄会社に就職するも上司の勧めに従い在籍3ヶ月で退職していた
- 大瀧詠一は21歳の時に細野晴臣に誘われて「ヴァレンタイン・ブルー」に加入
- 【画像】大瀧詠一のデビューは?はっぴいえんど時代までの代表曲や経歴を時系列まとめ!
- 大瀧詠一は22歳の時に「はっぴいえんど」として1stアルバム「はっぴいえんど」でデビュー
- 大瀧詠一は23歳の時に「はっぴいえんど」として2枚目のアルバム「風街ろまん」をリリース
- 大瀧詠一は23歳の時にソロ・シングル「恋の汽車ポッポ」「空飛ぶくじら」をリリース
- 大瀧詠一は24歳の時にソロ・ファーストアルバム「大瀧詠一」をリリース
- 大瀧詠一が24歳の時には「はっぴいえんど」が解散
- 【画像】大瀧詠一の若い頃(はっぴいえんど以降)の代表曲や経歴を時系列まとめ!
- 大瀧詠一は25歳の時に手掛けた三ツ矢サイダーのCMソング「サイダー’73」が大反響を呼んでいた
- 大瀧詠一は26歳の時に自身のレーベル「ナイアガラ・レーベル」第一弾として「シュガー・ベイブ」の「SONGS」をリリース
- 大瀧詠一は26歳の時に自身のレーベル「ナイアガラ・レーベル」よりソロアルバム「NIAGARA MOON」をリリース
- 大瀧詠一は27歳~28歳の時に「NIAGARA TRIANGLE Vol.1」「GO! GO! NIAGARA」「NIAGARA CM SPECIAL Vol.1」がヒット
- 大瀧詠一は32歳の時に太田裕美に提供したシングル「さらばシベリア鉄道」が作曲家として初のヒットを記録
- 大瀧詠一は32歳の時に崖っぷちの状況でアルバム「A LONG VACATION」がミリオンセラーとなっていた
- 大瀧詠一は33歳の時に松田聖子に提供した「風立ちぬ」がオリコンチャートで初の1位を記録
- 大瀧詠一は34歳の時に森進一に作曲した「冬のリヴィエラ」がオリコントップ10入りを果たすヒット
- 大瀧詠一は37歳の時に小林旭に作曲した「熱き心に」が大ヒット
- 大瀧詠一は49歳の時に「幸せな結末」(月9ドラマ「ラブジェネレーション」の主題歌)がミリオンセラー
- 大瀧詠一は54歳の時に「恋するふたり」(月9ドラマ「東京ラブ・シネマ」の主題歌)がヒット
- 大瀧詠一は65歳で死去
- 大瀧詠一の死因はリンゴを喉に詰まらせた急死?1週間前に寝込んでいた!
- 大瀧詠一は他界する1週間前に体調不良を訴え2日間寝込んでいた
- 大瀧詠一は倒れた時リンゴの皮をむいていた
- 大瀧詠一の死因は解離性動脈りゅう
- 大瀧詠一はリンゴをのどに詰まらせていた?
- 大瀧詠一は山下達郎の声に衝撃を受けプロデュース&デビューさせていた!
- 大瀧詠一は山下達郎と出会う前には伊藤銀次のバンド「ココナツ・バンク」のプロデュースをしていた
- 大瀧詠一は山下達郎の声の素晴らしさに衝撃を受けていた
- 大瀧詠一は山下達郎に初対面で「はっぴいえんどなんて知りませんよ。聴いたこともないッ!」と言い放たれていた
- 大瀧詠一は山下達郎のバンド「シュガー・ベイブ」を自身のレーベル「ナイアガラレーベル」より「SONGS」でデビューさせていた
- 大瀧詠一は山下達郎に出会えた1973年を「わが生涯、輝ける最良の年」と語っていた
- 大瀧詠一は松田聖子の「風立ちぬ」を「A LONG VACATION」と対になるよう制作していた!
- 大瀧詠一が松田聖子に提供(作曲)した楽曲は?
- 大瀧詠一は自身の「A LONG VACATION」と松田聖子の「風立ちぬ」の収録曲が対になるように制作していた
- 大瀧詠一は「風立ちぬ」の切ない歌詞に対して明るく前向きな曲を制作していた
- 大瀧詠一は松田聖子にほぼぶっつけ本番でメロディを覚えさせていた
- 大瀧詠一は松田聖子の表現力を称賛していた
- 大瀧詠一の幻の楽曲「いちご畑でFUN×4」が松田聖子のアルバム「SEIKO MATSUDA 2020」に収録
- 大瀧詠一と松田聖子のデュエット「風立ちぬ」がアルバム「Bible-milky blue-」に収録
- 大瀧詠一の妻は?子供は息子と娘!娘婿は坂口修(音楽プロデューサー)!
- 大瀧詠一の妻は?
- 大瀧詠一の息子は大瀧詞巧
- 大瀧詠一の娘は?
- 大瀧詠一の娘婿は音楽プロデューサー・音楽評論家の坂口修
について、ご紹介しました。
「はっぴいえんど」のメンバーとして日本語ロックの金字塔を打ち立てると、その後も卓越したセンスで、ソロでは、「A LONG VACATION」、提供曲では、松田聖子さんへの「風立ちぬ」、森進一さんへの「冬のリヴィエラ」、小林旭さんへの「熱き心に」といった名曲を生み出すほか、CMソングの制作から楽曲提供まで、日本のポップス界に革新をもたらし続けた大瀧詠一さん。
そんな大瀧詠一さんが遺した珠玉の楽曲たちは、今もなお多くの人々の心に響き続けており、その唯一無二の音楽世界は、この先も永遠に愛され続けることでしょう。
1969年9月、「ヴァレンタイン・ブルー」(後に「はっぴいえんど」)に加入すると、1970年代は、「はっぴいえんど」のヴォーカル兼ギターとして活躍した、大瀧詠一(おおたき えいいち)さん。 そんな大瀧詠一さんは、歌を歌う …