1969年9月、20歳の時、ロックバンド「エイプリル・フール」のドラマーとしてデビューすると、解散後の1970年3月には、「はっぴいえんど」を結成し、ロックのサウンドに日本語の歌詞を乗せることにこだわったという、松本隆(まつもと たかし)さん。
今回は、そんな松本隆さんの、若い頃(「エイプリル・フール」時代から「はっぴいえんど」時代)の経歴を時系列でまとめてみました。
「松本隆の細野晴臣との出会いは?デビューからバーンズ時代までの経歴を時系列まとめ!」からの続き
松本隆は19歳の時に細野晴臣に誘われてロックバンド「エイプリル・フール」に加入
松本隆さんは、「バーンズ」解散後、1969年、細野晴臣さんに誘われて、ロックバンド「エイプリル・フール」に加入し、新宿のディスコ「パニック」を拠点にライブ活動を行うと、
アメリカのロック・ムーブメントの影響を強く受けながらも、オリジナル曲を中心にしたレパートリーと優れた演奏力で注目され、たちまち人気を博します。
また、同年9月10日(松本隆さん20歳)には、デビューアルバム「APRYL FOOL」をリリース(全9曲のうち、4曲を松本隆さんが作詞を担当)しているのですが・・・
「APRYL FOOL」
アルバム制作時に、細野晴臣さんとメンバーの柳田ヒロさんが大ゲンカし、「エイプリル・フール」は同じ月に解散となったそうです。
ちなみに、松本隆さんは、毎晩、演奏できてとてもうれしかったそうで、しかも、松本隆さんのギャラは(当時のサラリーマンの給料が3万円の時代)5万円と破格で、後に、人生で一番楽しかった時期だったと語っています。
松本隆は20歳の時に「はっぴいえんど」を結成
一方、松本隆さんは、「エイプリル・フール」在籍中の1969年9月、細野晴臣さん、大瀧詠一さん、鈴木茂さんと、「バレンタイン・ブルー」を結成すると、1970年3月には、「バレンタイン・ブルー」を「はっぴいえんど」と改称して活動を本格化させます。
「はっぴいえんど」(左から)大瀧詠一さん、細野晴臣さん、鈴木茂さん、松本隆さん。
また、松本隆さんは、「エイプリル・フール」では、嫌々、英語の歌詞を書かされていたそうで、今度こそ、新バンドの詞は日本語でやりたいと、細野晴臣さんと新しくメンバーに加わった大瀧詠一さんの年長で頑固者の2人をどうにか説き伏せ、日本語で書くことになったのだそうです。
(細野晴臣さんは、「バーンズ」時代には、日本語で書くように勧めてきたそうですが、「エイプリルフール」では、一転、英語しか認めてくれなかったのだそうで、松本隆さんは「細野さんはすぐ裏切る」と愚痴っていたそうです)
ちなみに、松本隆さんは、ロックを日本語で歌うことについて、
「はっぴいえんど」は、日本語でロックを歌うという明確な“意志と理由”のあるバンドでした。いまでは当たり前のように思う人も多いと思いますが、当時はプロの音楽家のなかにもロックには英語しかあわないと考える人も多かった。
内田裕也さんなんかがその代表で、デビュー直後くらいに座談会に呼び出されて、けちょんけちょんに批判された。向こうは30過ぎで、すでに実績もある音楽業界のボス。こっちは20歳くらいの若僧ですよ。
お前らが音楽雑誌で1位になったのが気に入らないとか言って。「日本語ロック論争」なんて言われていたけど、論争でもなんでもないただの吊し上げ(笑)。ずいぶんと大人げないことをしていたんです。
と、語っています。
松本隆は21歳~22歳の時に「はっぴいえんど」として「はっぴいえんど」「風街ろまん」をリリース
そして、「はっぴいえんど」では、
- 1970年8月5日(21歳)に、「はっぴいえんど」
- 1971年11月20日(22歳)に、「風街ろまん」
と、2枚のアルバムをリリースし、
ロックのサウンドに日本語の歌詞を融合させた〝日本語ロック〞を確立したのでした。
松本隆は22歳の時に「はっぴいえんど」の解散を細野晴臣と大瀧詠一から一方的に通告されていた
しかし、4人は、「風街ろまん」で完全燃焼し、方向性を見失ったそうで、その後、それぞれの活動を本格化させ、しばらくして解散が決定したそうですが、解散の理由は、細野晴臣さんと大瀧詠一さんの確執と言われています。
ちなみに、松本隆さんは、
解散は、細野さんと大瀧さんが2人で決めちゃった。僕と(鈴木)茂は、その結論を伝えられただけ。2人は音楽家としてライバルで、ぶつかり合うことが多かった。「もうそろそろかな」とは思っていたけど、突然かつ予想外のタイミングで解散と言われた。
と、解散は寝耳に水だったことを明かしています。
松本隆は23歳の時に「はっぴいえんど」として3枚目のアルバム「HAPPY END」をリリースするも手抜きの極致だった
しかし、最後のアルバムを作りたいレコードプロデューサーの発案で、3枚目のアルバムをアメリカで制作することになったそうで、
松本隆さんは、すっかりバンド活動に意欲を失い、ドラムを叩くのが嫌になり、さらには、詞も書けなくなってしまっていたことから、3枚目のアルバム「HAPPY END」(1973年2月25日リリース)は、手抜きの極致だったそうで、
存在してほしくないアルバム
とまで、語っています。
(「はっぴいえんど」は1972年12月31日に解散しているのですが、1973年9月21日に解散コンサートが行われています)
「【画像】松本隆の作詞家下積時代の曲は?音楽プロデューサーもしていた!」に続く
1969年9月、20歳の時、ロックバンド「エイプリル・フール」のドラマーとしてデビューすると、解散後の1970年3月には、「はっぴいえんど」を結成し、ロックのサウンドに日本語の歌詞を乗せることにこだわったという、松本隆( …