1973年、専業作詞家になって初めて作詞を担当したチューリップの「夏色のおもいで」がヒットを記録した、松本隆(まつもと たかし)さんですが、
実は、この「夏色のおもいで」の歌詞で、当時、「ブルー・ライト・ヨコハマ」や「また葦う日まで」など、立て続けにヒットを飛ばし、”歌謡界の帝王”と称されていた作曲家の筒美京平さんに見初められたそうで、
その後、松本隆さんは、筒美京平さんとタッグを組むと、1975年、太田裕美さんに提供した「木綿のハンカチーフ」が150万枚を売り上げる大ヒットを記録し、以降、次々とヒット曲を生み出し、”日本歌謡界最大のヒットメーカー””ゴールデンコンビ”などと称されるようになったのでした。
今回は、そんな松本隆さんと筒美京平さんの出会いや「ゴールデンコンビ」と呼ばれるようになった経緯、エピソードについて、ご紹介します。
「【画像】松本隆の若い頃(作詞家全盛時代)から現在までの代表曲や経歴を時系列まとめ!」からの続き
松本隆は「はっぴいえんど」解散後は家族を養うために専業作詞家に転身していた
松本隆さんは、「はっぴいえんど」解散直後は、他のアーティストのアルバムの作詞兼プロデュースをしていたそうですが、特に思い入れのあった南佳孝さんの「摩天楼のヒロイン」(1973年)が全く売れなかったそうで、
(後に名盤と言われるようになっています)
その時、ちょうど、子供が生まれたこともあり、家族を養わなければならず、どうにかしなければと、専業作詞家に転身したそうです。
松本隆は歌謡界の帝王・筒美京平と一緒に仕事をしたいと思っていた
そして、レコード会社の友人3人に、作詞の仕事があったら紹介してほしいと依頼すると、初めて来た仕事で、チューリップに提供した「夏色のおもいで」(1973年)がいきなりヒットを記録し、作詞家として上々の一歩を踏み出したそうですが、
実は、その頃、松本隆さんは、歌謡界の帝王・筒美京平さんと一緒に仕事をしたいと思いつつ、まだ駆け出しで全くコネもツテもなく、どうすればいいのだろうと途方に暮れていたといいます。
(筒美京平さんは、「ブルー・ライト・ヨコハマ」や「また葦う日まで」など、立て続けにヒットを飛ばし、「歌謡界の帝王」と呼ばれていました)
松本隆は「夏色のおもいで」の作詞で筒美京平に見初められていた
そんな中、1973年のある日のこと、ソニー・ミュージックの人に、
筒美京平さんが君に興味を持っているから、ちょっと会ってくれ
と、言われたそうで、
松本隆さんは、早速、筒美京平さんの仕事場のマンションを訪ねたそうです。
(筒美京平さんの仕事場は、当時、青山の国立競技場のそばにあった億ションで、30畳くらいあり、玄関だけでも住めるのではないかと思うほどの広さだったそうです)
すると、筒美京平さんは、
(松本隆さんが作詞した「夏色のおもいで」を)これこそヒット曲というんだよ。すばらしい
と、褒めてくれたのだそうです。
(筒美京平さんは、従来の作詞家が書く詞に何か物足りなさを感じ、新しい才能を求めていたのだそうです)
ただ、松本隆さんには、「夏色のおもいで」の何が良かったのかよく分からず、また、目の前には、”歌謡界の帝王”である筒美京平さんがいたことから、ただただ、呆然としていたそうです。
(また、その広い部屋を見て「作曲家ってすごく儲かるんだなあ」と思ったことは今でも忘れられないそうです)
松本隆は筒美京平とタッグを組み太田裕美に提供した「木綿のハンカチーフ」が150万枚を売り上げる大ヒットを記録
こうして、松本隆さんは、作詞家として、作曲家の筒美京平さんとタッグを組むことになり、1974年から仕事を開始すると、
翌年の1975年、太田裕美さんに提供した「木綿のハンカチーフ」が150万枚を売り上げる大ヒットを記録したのでした。
松本隆は「木綿のハンカチーフ」を作詞した際、筒美京平からクレームがあると予想していた
実は、この「木綿のハンカチーフ」は、男女の手紙のやり取りを歌詞にし、それを1人の歌手が歌うという構成になっているのですが、
当時の日本の歌謡曲では、1人の歌手が男性と女性の言葉を交互に切り替えて歌うという構成は例がなく、新しい日本語ポップスを創造しようという松本隆さんの試みだったといいます。
そんなことから、松本隆さんは、筒美京平さんから、
曲をつけるのは難しい
と、連絡があるだろうと予想し、締切当日まで連絡の取れない場所に雲隠れしていたそうですが、
その後、筒美京平さんからは、
いやー、いい曲が出来たよ
と、嬉しそうに連絡があったそうで、筒美京平さんの作った曲を聴くと、
- 男女の別れを歌った詞にもかかわらず、明るいポップな曲、1コーラスの中に1つとして同じメロディがない
- 太田裕美さんの歌唱法の良いところを引き出すために「僕は旅立つ」というフレーズでファルセットになっている
など、
松本隆さんは、
やっぱり、この人はすごいな
と、感じたのだそうです。
実は、筒美京平さんは、初めて、松本隆さんの歌詞を見た際、
詞が長過ぎる、こんな詞じゃ曲を付けられないよ
と思い、松本隆さんに詞を短くするように言おうと思ったそうですが、
松本隆さんと連絡がとれず、仕方なくそのまま歌詞に合わせて曲を作ったそうで、曲作りに取り掛かるとスムーズに進み、曲を完成させることができたのだそうです。
松本隆と筒美京平は「従来の歌謡曲とは違った新しいものを創ろう」という点で思いが一致していた
そんな松本隆さんと筒美京平さんは、その後もタッグを組み、
- 「スニーカーぶる~す(近藤真彦さん)」
- 「Romanticが止まらない(CCB)」
- 「セクシャルバイオレットNo.1(桑名正博さん)」
など、次々とヒット作を飛ばしているのですが、
実は、松本隆さんと筒美京平さんは9歳も年の差があり、世代も感性も違っていたといいます。
ただ、
従来の歌謡曲とは違った新しいものを創ろう
という点で思いが一致していたそうで、
松本隆さんがどんな斬新な歌詞を書いても、筒美京平さんは予想をはるかに上回るクオリティで返してくれたそうで、
(一方、筒美京平さんも松本隆さんが書く詞に細かい注文は出さず、自由にやらせてくれたそうです)
松本隆さんは、2020年11月14日の朝日新聞のインタビューで、
京平さんが仕事を受けてくれたら、それでもう僕の仕事は半分終わり。成功を保証されたようなものだったから
と、語っています。
松本隆が筒美京平とのタッグで最も印象に残る作品は中川翔子の「綺麗ア・ラ・モード」
また、松本隆さんが、筒美京平さんと作った作品の中で一番印象に残っている作品は、中川翔子さんの「綺麗ア・ラ・モード」(2008年)だそうですが、
実は、この曲は、筒美京平さんと一緒に仕事をしなくなって10年以上経ち、久しぶりに組んだ作品だったそうで、
(シングルとしては最後の曲)
久しぶりに筒美京平さんの作った曲を聴いたそうですが、全盛期と全く変わっていないことに驚き、
やっぱりこの人はすごいな
と、改めて感じたのだそうです。
その後、松本隆さんは、2014年、太田裕美さんのコンサートで、筒美京平さんと久しぶりに再会し、一緒に食事をしたそうですが、それが筒美京平さんと会った最後となってしまったそうで、2020年10月7日、筒美京平さんは他界されたのでした。
ちなみに、松本隆さんは、そんな筒美京平さんとの関係について、
「木綿のハンカチーフ」は、その後のいわゆるJ-POPのもとになった曲だと思います。僕が出会ったころ、京平さんはすでに歌謡界の帝王だったけど、僕から見るとそれは“旧”歌謡界。
僕はサブカルチャーの出身だから、京平さんにとってはある種の異物だったと思います。でも異物なものが掛け合わされたからこそ、それまでにない新しいものが生まれた。
僕の作詞家人生にとって京平さんとの出会いはすごく大きな出来事だったけど、それは京平さんにとっても同じだったんじゃないかと思います。
京平さんに怒られるかもしれないけど、僕という作詞家に出会ったことで、筒美京平という作曲家は変わることができたし、そのぶん長くヒットメーカーでいられたのではないかと思っています。
と、語っています。
「松本隆の最初の妻は?再婚相手(3番目の妻)は書道家の川尾朋子!子供は?」に続く
太田裕美さんの「木綿のハンカチーフ」、寺尾聰さんの「ルビーの指環」、KinKi Kidsの「硝子の少年」など、誰でも一度は聴いたことがあるだろうヒット曲を手掛け、これまで2100曲以上の作品を生み出し、シングル通算約50 …