昭和・平成・令和と三時代に渡って歌謡界をリードするほか、2000年代に入ってからは、声優にも楽曲を提供するなど、常に最先端で活躍を続けていた、筒美京平(つつみ きょうへい)さん。
今回は、そんな筒美京平さんの、若い頃(ヒットメーカー時代)から他界されるまでの代表曲や経歴を時系列でまとめてみました。
「筒美京平は会社員時代から作曲&編曲していた!下積時代の楽曲や経歴を時系列まとめ!」からの続き
筒美京平は27歳の時に「ザ・ライジングサン・トリオ」の「海よ忘れて」で作曲を担当
1967年、「日本グラモフォン」を退職して独立した筒美京平さんは、同年(27歳)には、ザ・ライジングサン・トリオの「戦場の星」のB面として収録された「海よ忘れて」で作曲を担当しています。
「海よ忘れて」「海よ忘れて」
筒美京平は27歳の時にヴィレッジ・シンガーズの「バラ色の雲」が初のヒット
また、筒美京平さんは、同年(1967年)には、ヴィレッジ・シンガーズの「バラ色の雲」(1697年8月1日発売)で作曲を担当すると、初のヒットを記録しています。
ヴィレッジ・シンガーズの「バラ色の雲」
筒美京平は27歳の時にはジャガーズの「マドモアゼル・ブルース」を作曲
こうして頭角を表した筒美京平さんは、翌年1968年には(27歳)、ジャガーズの「マドモアゼル・ブルース」(1968年1月25日リリース)を作曲しているのですが、
作詞は橋本淳さんが担当しており、以降、橋本淳さんとのコンビでジャガーズに楽曲を提供しています。
ジャガーズの「マドモアゼル・ブルース」
筒美京平は27歳の時にオックスのデビュー曲「ガール・フレンド」を作曲
そんな筒美京平さんは、同年、オックスのデビュー曲「ガール・フレンド」(1968年5月5日リリース)でも、橋本淳さんとコンビを組んで曲を提供すると、
オックスのデビュー曲「ガール・フレンド」
以降、
- 1968年9月5日(28歳)には、「ダンシング・セブンティーン」
- 1968年12月10日(28歳)には、「スワンの涙」
- 1969年3月25日(28歳)には、「僕は燃えてる」
- 1969年6月25日(29歳)には、「ロザリオは永遠に」
と、5曲連続、橋本淳さんと共にオックスにシングル曲を提供しています。
筒美京平は28歳の時にいしだあゆみに作曲した「ブルー・ライト・ヨコハマ」が100万枚を超える大ヒット
また、同年、いしだあゆみさんに提供した「ブルー・ライト・ヨコハマ」(1968年12月25日リリース)が100万枚を超える大ヒットを記録し、
筒美京平さんも、翌年の「レコード大賞」の作曲賞を受賞すると、一躍、筒美京平さんの名前が世に知れ渡ります。
いしだあゆみさんの「ブルー・ライト・ヨコハマ」
筒美京平は30歳の時に尾崎紀世彦に提供した「また逢う日まで」がオリコン1位&100万枚を売り上げる大ヒット
さらに、1971年(30歳)には、尾崎紀世彦さんに提供した「また逢う日まで」(1971年3月5日リリース)が、オリコンシングルチャート1位を記録(売上100万枚)する大ヒットとなり、
同年12月31日は、初の「第13回日本レコード大賞」の大賞と「第2回日本歌謡大賞」の大賞をダブル受賞するという快挙を遂げたのでした。
尾崎紀世彦さんの「また逢う日まで」
筒美京平は31歳~34歳の時に「17歳」「赤い風船」「わたしの彼は左きき」「よろしく哀愁」「甘い生活」を作曲
以降、筒美京平さんは、
- 1971年年6月1日(31歳)には、「17歳」(南沙織さん)
- 1973年4月21日(32歳)には、「赤い風船」(浅田美代子さん)
- 1973年7月5日(33歳)には、「わたしの彼は左きき」(麻丘めぐみさん)
- 1974年9月21日(34歳)には、「よろしく哀愁」(郷ひろみさん)
- 1974年10月20日(34歳)には、「甘い生活」(野口五郎さん)
など、次々と新しいアイドルを輩出しています。
筒美京平は35歳の時に太田裕美さんへの提供曲「木綿のハンカチーフ」が150万枚を売り上げる大ヒット
さらには、1975年には(筒美京平さん35歳)、作詞家の松本隆さんと組んで、太田裕美さんへ提供した「木綿のハンカチーフ」(1975年12月21日リリース)が150万枚を売り上げる大ヒットを記録しています。
太田裕美さんの「木綿のハンカチーフ」
筒美京平は38歳の時にジュディ・オングに提供した「魅せられて」が累計200万枚を売り上げる大ヒット
そして、1979年には(筒美京平さん38歳)、ジュディ・オングさんに提供した「魅せられて」(1979年2月25日リリース)が、累計200万枚を売り上げる大ヒットを記録し、同年、「第21回日本レコード大賞」を受賞しています。
ジュディ・オングさんの「魅せられて」
筒美京平が40歳~48歳の時には「ギンギラギンにさりげなく」「原宿キッス」「なんてったってアイドル」「仮面舞踏会」などを作曲
そんな筒美京平さんは、1980年代に入ってからも、
- 1980年12月12日(40歳)には、「スニーカーぶる~す」(近藤真彦)
- 1981年9月30日(41歳)には、「ギンギラギンにさりげなく」(近藤真彦)
- 1982年3月31日(41歳)には、「原宿キッス」(田原俊彦)
- 1983年7月21日(43歳)には、「夏のクラクション」(稲垣潤一)
- 1984年9月21日(44歳)には、「ヤマトナデシコ七変化」(小泉今日子)
- 1985年11月21日(45歳)には、「なんてったってアイドル」(小泉今日子)
- 1985年12月12日(45歳)には、「仮面舞踏会」(少年隊)
- 1986年12月10日(46歳)には、「ないものねだりのI Want You」(C-C-B)
- 1987年6月21日(47歳)には、「さよならの果実たち」(荻野目洋子)
- 1988年11月10日(48歳)には、「じれったいね」(少年隊)
- 1989年1月1日(48歳)には、「ホンキをだして」(酒井法子)
など、数多くのヒット曲を手掛けています。
筒美京平が51歳~58歳の時には「人魚」「強い気持ち・強い愛」「やめないで,PURE」などを作曲
そして、1990年代も、
- 1991年8月7日(51歳)には、「ときめいて」(西田ひかるさん)
- 1992年7月8日(52歳)には、「負けるなBaby!~Never give up」(SMAP)
- 1994年3月9日(53歳)には、「人魚」(NOKKOさん)
- 1995年2月28日(54歳)には、「強い気持ち・強い愛」(小沢健二さん)
- 1996年2月10日(55歳)には、「MUST BE HEAVEN 」(中西圭三さん)
- 1998年6月20日(58歳)には、「BOO~おなかが空くほど笑ってみたい~」(ゴスペラーズ)
- 1999年2月24日(58歳)には、「やめないで,PURE」(KinKi Kids)
など、数多くのヒット曲を手掛けています。
筒美京平が63歳~78歳の時には「綺麗ア・ラ・モード」「再会タイムマシン」「青い炎シンドローム」などを作曲
さらに、筒美京平さんは、2000代に入ってからも、
- 2003年10月1日(63歳)には、「AMBITIOUS JAPAN!」(TOKIO)
- 2006年3月15日(65歳)には、「恋のダウンロード」(仲間由紀恵 with ダウンローズ)
- 2008年10月22日(68歳)には、「綺麗ア・ラ・モード」(中川翔子さん)
- 2013年1月9日(72歳)には、「時空ツアーズ」(竹達彩奈さん)
- 2014年5月21日(73歳)には、「恋するBAILA BAILA」(杏子さん)
- 2015年7月29日(75歳)には、「再会タイムマシン」(野口五郎さん)
- 2016年12月14日(76歳)には、「青い炎シンドローム」(飯田里穂さん)
- 2017年10月25日(77歳)には、「Oneway Generation」(Thinking Dogs)
- 2019年5月22日(78歳)には、「あなたの淋しさは、愛 」(田所あずささん)
と、精力的に作曲活動を行っています。
筒美京平の死因は誤嚥性肺炎
そんな筒美京平さんは、2020年10月7日、誤嚥性肺炎により、80歳で他界されているのですが、
実は、亡くなるまでの数年間、パーキンソン病を患い、自宅で療養していたにもかかわらず、体調の良い時には、創作活動に取りかかっていたそうで、まだまだ、仕事への意欲をみせていたといいます。
「筒美京平と橋本淳の出会いは?ブルーライトヨコハマほか共作は550曲!」に続く
洋楽のエッセンスを取り入れた洗練されたメロディーでヒット曲を連発し、1970年代と1980年代の歌謡曲黄金時代を支えた、筒美京平(つつみ きょうへい)さんですが、 実は、大学卒業後のサラリーマン時代に、高校時代の先輩で、 …