1975年、太田裕美さんに提供したシングル「木綿のハンカチーフ」が150万枚を売り上げる大ヒットを記録すると、これがきっかけで、作詞家として注目されるようになり、以降、アイドルやアーティストに2,000曲以上もの詞を提供してきた、松本隆(まつもと たかし)さん。

今回は、そんな松本隆さんの、若い頃(作詞家全盛時代)からの代表曲(歌)や経歴を時系列でまとめてみました。

松本隆

「【画像】松本隆の作詞家下積時代の曲は?音楽プロデューサーもしていた!」からの続き

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松本隆は26歳の時に太田裕美に提供した「木綿のハンカチーフ」が150万枚を売り上げる大ヒット

1974年6月、24歳の時、アグネス・チャンさんに提供した「ポケットいっぱいの秘密」が大ヒットとなり、少しずつ仕事が入るようになったという松本隆さんは、

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その後まもなく、作曲家の筒美京平さんに見初められてタッグを組み、翌年の1975年12月、26歳の時、太田裕美さんにシングル「木綿のハンカチーフ」を提供すると、

150万枚を売り上げる大ヒット記録し、一躍、作詞家として注目されるようになります。

(筒美京平さんは、松本隆さんがチューリップに提供した「夏色のおもいで」の歌詞を見て、松本隆さんに声をかけたそうです)

「木綿のハンカチーフ」
「木綿のハンカチーフ」

ちなみに、松本隆さんは、今、売れている歌ではなく、純粋に自分がその歌手に歌ってほしいものを書くことを哲学にしていたそうで、この「木綿のハンカチーフ」も、歌い手である太田裕美さんに歌ってほしい歌を作ったそうで、結果的に大ヒットとなったのだそうです。

松本隆は28歳の時に原田真二に提供した「てぃーんず ぶるーす」「キャンディ」「シャドー・ボクサー」がヒット

その後、松本隆さんは、1977年秋には、アイドル並みのルックスながら自ら作曲も手掛ける、新人歌手の原田真二さんの作詞を依頼されたそうですが、

デビュー曲から毎月3曲連続リリースするという前代未聞の企画だったそうで、

とシングルがリリースされると、3曲が同時にオリコンベスト15に入るという快挙を遂げ、

原田真二さんも、そのルックスと相まって、たちまちアイドル的な人気を獲得します。

(原田真二さんは、吉田拓郎さんがプロデューサー兼社長を務める「フォーライフ・レコード」からデビューしています)

松本隆は28歳の時に原田真二に提供した「タイム・トラベル」が大ヒット

そして、松本隆さんは、翌年の1978年4月10日(松本隆さん28歳)には、原田真二さんの4枚目のシングル「タイム・トラベル」の作詞も手掛けると、この曲はオリコン最高4位を記録する大ヒットを記録しています。

ちなみに、この「タイム・トラベル」は、ポップなメロディとは裏腹に、どこか「はっぴいえんど」時代を思わせる、文学的な詞が異彩を放っているのですが、

このことについて、松本隆さんは、

一周回って原点に立ち返った

と、語っています。

松本隆は28歳~31歳まで筒美京平とタッグを組み「東京ららばい」「セクシャルバイオレットNo.1」「スニーカーぶる~す」ほか作詞

そんな松本隆さんは、その後も、筒美京平さんとタッグを組み、

など、合計約380作品を手掛けています。

松本隆は31歳の時に寺尾聰の「ルビーの指環」の作詞を手掛け160万枚を売り上げる大ヒット

さらに、松本隆さんは、1981年2月5日(31歳)にリリースされた寺尾聰さんのシングル「ルビーの指環」の作詞を手掛けているのですが、

この曲は160万枚を売り上げる大ヒットを記録し、「第23回日本レコード大賞」を受賞しています。

松本隆
「ルビーの指環」

松本隆は31歳の時に「イモ欽トリオ」の「ハイスクールララバイ」を作詞し160万枚を売り上げる大ヒット

また、1980年代には、「はっぴいえんど」時代の仲間たちを歌謡界に呼び寄せて、細野晴臣さんとタッグを組み、バラエティ番組から誕生したアイドルグループ「イモ欽トリオ」のデビューシングル「ハイスクールララバイ」の作詞を手掛けると、

この「ハイスクールララバイ」(1981年8月5日にリリース)は、オリコン7週連続1位、累計売上160万枚のミリオンセラーとなる大ヒットを記録しています。

松本隆
「ハイスクールララバイ」

松本隆は大瀧詠一のソロアルバム「A LONG VACATION」で作詞を手掛けミリオンセラーの大ヒットを記録

そして、松本隆さんは、1981年3月21日にリリースされた、大瀧詠一さんのソロアルバム「A LONG VACATION」では、全10曲中9曲の作詞を手掛けているのですが、

このアルバムは、当初は、売上が低迷するも、発売から1年でミリオンセラーとなる大ヒットを記録しています。

「A LONG VACATION」
「A LONG VACATION」

実は、発売予定日は、もともと、1980年7月28日(大瀧詠一さんの誕生日)だったところ、アルバム制作中、生まれつき体が弱かったという、松本隆さんの妹さんが26歳の若さで他界され、松本隆さんは、ショックのあまり、その日から歌詞が書けなくなってしまったそうで、

大瀧詠一さんに仕事の降板を申し出たそうですが、大瀧詠一さんは、松本隆さんとこのアルバムを作ると決めていたことから、待つと言ってくれたのだそうです。

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松本隆は32歳~35歳の時に「赤いスイートピー」「渚のバルコニー」「小麦色のマーメイド」ほか松田聖子の作詞を手掛けていた

そんな松本隆さんは、数多くのアーティストやアイドルに詞を提供する中、1981年、32歳の時には、松田聖子さんの6枚目のシングル「白いパラソル」から松田聖子さんの歌詞を手掛けるようなると、

以降、

と、数多くの作品がヒットしています。

(松田聖子さんに提供した曲は、138曲に上ると言われています)

松本隆は40歳から一時作詞活動を休止していた

その後も、松本隆さんは、薬師丸ひろ子さん、斉藤由貴さん、中山美穂さん、C-C-Bなど、数多くのアイドル、アーティストに詞を提供しているのですが、

1989年、40歳の時、一時、作詞家としての活動を休止すると、休養期間中は、日本の古典芸能や西洋のクラシック音楽の研究など、自身の趣味に没頭していたといいます。

松本隆は48歳の時にKinKi Kidsに提供した「硝子の少年」がヒットチャート1位を獲得する大ヒットを記録

そして、1994年に本格的に作詞活動を再開すると、1997年7月21日(松本隆さん48歳)、KinKi Kidsに提供した「硝子の少年」がいきなりヒットチャート1位を獲得する大ヒットとなっています。

「硝子の少年」
「硝子の少年」

松本隆は55歳の時にはインディーズレーベル「風待レコード」を設立

また、松本隆さんは、2004年には、新しい才能を発掘するため、インディーズレーベル「風待レコード」を設立し、「キャプテンストライダム」というバンドのデビューを後押ししています。

松本隆は59歳の時に中川翔子に提供した「綺麗ア・ラ・モード」がヒット

ちなみに、2008年10月22日(松本隆さん59歳)には、中川翔子さんに提供した「綺麗ア・ラ・モード」がヒットを記録しているのですが、この曲は、久しぶりに、筒美京平さんとタッグを組んだ作品だったそうです。

「綺麗ア・ラ・モード」

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松本隆の現在(60代~70代)は?

その後も松本隆さんは、

  • 2015年8月21、22日(66歳)には、「松本隆 作詞家活動四十五周年記念オフィシャル・プロジェクト」の集大成となるライブ「風街レジェンド2015」を東京国際フォーラムにて開催
  • 2017年(68歳)には、紫綬褒章を受章
  • 2020年(71歳)には、デビュー50周年を記念したトリビュートライブ「松本隆 50周年 風街古都 コトノハ」が京都コンサートホールアンサンブルホールムラタにて開催
  • 2020年11月20日(71歳)には、「松本隆 作詞活動50周年記念オフィシャル・プロジェクト」始動
  • 2021年7月14日(71歳)には、松本隆作詞活動50周年トリビュートアルバム「風街に連れてって!」をリリース
  • 2021年11月5日・6日(72歳)には、「松本隆 作詞活動50周年記念オフィシャル・プロジェクト」の集大成ともいえるコンサート「風街オデッセイ2021」を日本武道館にて開催

と、現在も精力的に活動を続けています。

「松本隆の筒美京平との出会いは?「木綿のハンカチーフ」以降ゴールデンコンビと呼ばれていた!」に続く

お読みいただきありがとうございました

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