「はっぴいえんど」解散後は、CMソングの制作、他のアーティストへの楽曲提供やプロデュースを中心に行う中、1981年にリリースしたソロアルバム「A LONG VACATION」が大ヒットを記録すると、
その後も、松田聖子さんの「風立ちぬ」、森進一さんの「冬のリヴィエラ」、小林旭さんの「熱き心に」など、数々のヒット曲をプロデュースした、大瀧詠一(おおたき えいいち)さん。
今回は、そんな大瀧詠一さんの、若い頃(「はっぴいえんど」解散以降)の代表曲や経歴を時系列でまとめてみました。
「【画像】大瀧詠一のデビューは?はっぴいえんど時代までの代表曲や経歴を時系列まとめ!」からの続き
大瀧詠一は25歳の時に手掛けた三ツ矢サイダーのCMソング「サイダー’73」が大反響を呼んでいた
「はっぴいえんど」解散後、大瀧詠一さんはソロ活動に移行せず、CMソングの制作を手掛けるようになったそうですが、
1973年、25歳の時には、三ツ矢サイダーのCM向けに制作した「サイダー’73」という曲が大反響を呼び、以降、オファーが殺到したそうで、数多くのCMソングを手掛けることになったそうです。
(大瀧詠一さんには、サイダーの泡が上がってくる清涼感や映像を曲で表現するなど、CMが求めるものを具現化できる能力がありました)
大瀧詠一は26歳の時に自身のレーベル「ナイアガラ・レーベル」第一弾として「シュガー・ベイブ」の「SONGS」をリリース
また、大瀧詠一さんは、1974年には、自身のレーベル「ナイアガラ・レーベル」を立ち上げると、
1975年4月25日(大瀧詠一さん26歳)には、「ナイアガラ・レーベル」の第一弾レコードとして、山下達郎さんや大貫妙子さんら「シュガー・ベイブ」の「SONGS」をプロデュースし、リリースします。
大瀧詠一は26歳の時に自身のレーベル「ナイアガラ・レーベル」よりソロアルバム「NIAGARA MOON」をリリース
そして、1975年5月30日(大瀧詠一さん26歳)には、「はっぴいえんど」解散後初となるソロアルバム「NIAGARA MOON」をリリースしています。
大瀧詠一は27歳~28歳の時に「NIAGARA TRIANGLE Vol.1」「GO! GO! NIAGARA」「NIAGARA CM SPECIAL Vol.1」がヒット
しかし、精力的に活動を展開していた矢先、流通を委託していたエレックレコードが倒産。
それでも、大瀧詠一さんは、日本コロムビアに移籍し、その後も、
- 1976年3月25日(27歳)「NIAGARA TRIANGLE Vol.1」(伊藤銀次さん、山下達郎さんとの共作)
- 1976年10月25日(28歳)「GO! GO! NIAGARA」
- 1977年3月25日(28歳)「NIAGARA CM SPECIAL Vol.1」
と、アルバムをリリースすると、次々にヒットを記録します。
(ただ、手応えを感じていたという「NIAGARA CALENDAR」(1977年12月25日リリース)の売上はパッとせず、無力感に陥ったそうです)
大瀧詠一は32歳の時に太田裕美に提供したシングル「さらばシベリア鉄道」が作曲家として初のヒットを記録
その後、大瀧詠一さんは、1979年には、プロデュース業を手掛けるようになると、1980年には、プロデュースの仕事で出入りすることが多かったCBS・ソニーに移籍し、
元「はっぴいえんど」のメンバーで、旧友の松本隆さんと組んで、ナイアガラサウンドの集大成となる、アルバム「A LONG VACATION」のレコーディングに着手すると、
このレコーディングの最中に、女性向きと考えて太田裕美さんに提供し、1980年11月20日(大瀧詠一さん32歳)にリリースされた、「さらばシベリア鉄道」が、作曲家として初めてのヒットを記録したのでした。
(オリコンチャートランキングは最高で70位止まりだったそうですが、大瀧詠一さんにとっては作曲家として初めて100位以内にランクインした楽曲だったそうです)
「さらばシベリア鉄道」
大瀧詠一は32歳の時に崖っぷちの状況でアルバム「A LONG VACATION」がミリオンセラーとなっていた
そして、1981年3月21日(大瀧詠一さん32歳)には、アルバム「A LONG VACATION」をリリースすると、当初は、売上が低迷していたのですが、
ロート製薬「新・Vロート」CMソングとしてアルバムの中の楽曲「君は天然色」がタイアップされたことから、発売から1年でミリオンセラーとなる大ヒットを記録。
この大ヒットにより、大瀧詠一さんは、一躍、有名になったのでした。
ちなみに、音楽業界では
(ナイアガラでのソロ活動開始から)5年も売れなかったアーティストが突如売れるのは奇跡
と、言われていたのですが、
実は、大瀧詠一さんも、もし、このアルバム「A LONG VACATION」がオリコンアルバムチャートで100位にランクインしなければ、音楽業界から足を洗うと決めていたのだそうです。
大瀧詠一は33歳の時に松田聖子に提供した「風立ちぬ」がオリコンチャートで初の1位を記録
以降、大瀧詠一さんは、精力的に、他のアーティストに楽曲の提供やプロデュースを続けると、松本隆さんとコンビを組んで松田聖子さんに提供し、1981年10月7日(大瀧詠一さん33歳)にリリースされたシングル「風立ちぬ」がオリコンチャートで初の1位を記録します。
「風立ちぬ」
大瀧詠一は34歳の時に森進一に作曲した「冬のリヴィエラ」がオリコントップ10入りを果たすヒット
また、大瀧詠一さんは、演歌歌手の森進一さんに提供し、1982年11月21日(大瀧詠一さん34歳)にリリースされたシングル「冬のリヴィエラ」が、オリコントップ10入りを果たすヒットを記録し、
森進一さんは、この年の末、「第25回日本レコード大賞」特別金賞を受賞しています。
(作詞を担当した松本隆さんも「第16回日本作詩大賞」を受賞しています)
ちなみに、この「冬のリヴィエラ」は、森進一さんにとって、1974年の「北航路」以来、9年ぶりのオリコントップ10入りだったそうで、
森進一さんは、大瀧詠一さんが他界された2013年、
冬のリヴィエラは、いまも私にとって大きな宝物のような一曲。大瀧さんの元に届きますよう、心を込めて歌わせていただきます
と、大瀧詠一さんを悼み、「第46回年忘れにっぽんの歌」で歌唱しています。
大瀧詠一は37歳の時に小林旭に作曲した「熱き心に」が大ヒット
こうして、多くのヒット曲を生み出し、名声を高めた大瀧詠一さんは、1980年代後半も、引き続き、プロデューサー・作曲家として活動しているのですが、
そんな中、かねてより、ファンを公言していた小林旭さんに提供したシングル「熱き心に」が、1985年11月20日(大瀧詠一さん37歳)にリリースされると、たちまち大ヒットし、翌年の1986年に及ぶロングランヒットとなっています。
「熱き心に」
大瀧詠一は49歳の時に「幸せな結末」(月9ドラマ「ラブジェネレーション」の主題歌)がミリオンセラー
また、大瀧詠一さんは、1997年11月12日(大瀧詠一さん49歳)には、12年ぶりとなる自身のオリジナル曲「幸せな結末」をリリースすると、月9ドラマ「ラブジェネレーション」の主題歌として、ミリオンセラーとなる大ヒットを記録しています。
「幸せな結末」
ちなみに、大瀧詠一さんは、1985年からの12年間、(楽曲提供やプロデュース業はしていたものの)歌手としてはほぼ引退状態だったのですが、そんな中での大ヒットとなったのでした。
大瀧詠一は54歳の時に「恋するふたり」(月9ドラマ「東京ラブ・シネマ」の主題歌)がヒット
そして、2003年5月21日(大瀧詠一さん54歳)には、「幸せな結末」以来、約6年ぶりとなる新曲で、月9ドラマ「東京ラブ・シネマ」の主題歌「恋するふたり」をリリースすると、こちらもヒットを記録しています。
「恋するふたり」
大瀧詠一は65歳で死去
しかし、大瀧詠一さんは、2013年12月30日、自宅で夕食前にリンゴを食べている時に、突然倒れると、救急隊がかけつけた時には既に心肺停止の状態だったそうで、
搬送先の病院で、12月30日19時頃、解離性動脈瘤のため、65歳で他界されたのでした。
「大瀧詠一の妻は?子供は息子と娘!娘婿は坂口修(音楽プロデューサー)!」に続く
1970年、「はっぴいえんど」としてデビューを果たすと、以降、40年以上に渡り音楽活動を続け、2013年に他界された、大瀧詠一(おおたき えいいち)さん。 今回は、そんな大瀧詠一さんの、妻、子供(息子と娘が1人ずつ)、娘 …