他のアーティストに数多くの曲をプロデュースしてヒットさせるほか、1997年には、自身のオリジナル曲「幸せな結末」(月9ドラマの主題歌)が大ヒットを記録した、大瀧詠一(おおたき えいいち)さんですが、2013年12月30日、65歳で急逝されています。
今回は、そんな大瀧詠一さんの、死去に至るまでの経緯についてご紹介します。
「大瀧詠一の妻は?子供は息子と娘!娘婿は坂口修(音楽プロデューサー)!」からの続き
大瀧詠一は他界する1週間前に体調不良を訴え2日間寝込んでいた
妻の静子さんによると、大瀧詠一さんは、亡くなる1週間前、
風邪をひいた
と言って、体調不良を訴え、2日間寝込んでいたそうですが、
風邪の症状というよりは、足腰に力が入らず、
大瀧詠一さんは、
俺、脳が疲れたよ
と、言っていたといいます。
ただ、大瀧詠一さんは、アルバム「EACH TIME」の30周年記念盤を制作中だったことから、
(発売される)3月の仕事が終わるまではどこにも行けない。病院に行く時間がもったいない
と言い、通院もしなかったのだそうです。
大瀧詠一は倒れた時リンゴの皮をむいていた
そんな大瀧詠一さんは、2013年12月30日午後5時頃、スタジオから帰宅すると、東日本大震災の被災地の復興を伝える新聞記事を読んでいたそうですが、
読み終わった後、(夕食前に)
リンゴでも食べようかな
と、自分でリンゴの皮をむき始めたそうです。
そして、突然、大声で、
ママ、ありがとう
と、言ったことから、
静子さんがびっくりして大瀧詠一さんの方を見ると、大瀧詠一さんは椅子にもたれかかり、ぐったりとしていたそうで、慌てて救急車を呼ぶと、救急車を待つ間、(静子さんは看護師だったことから)心臓マッサージなど蘇生措置を施したそうですが、
救急車が到着した時には、大瀧詠一さんはすでに心肺停止の状態だったそうで、搬送先の病院で午後7時頃、死亡が確認されたのだそうです。
ちなみに、静子さんは、大瀧詠一さんと最後の会話を交わした20分間について、
今となっては全て遺言になってしまった。“ありがとう”という言葉は、主人を支え見守ってくださった方々にお礼を述べてほしいということだったと思う。楽しいことが好きな人でした
と、語っています。
大瀧詠一の死因は解離性動脈りゅう
実は、大瀧詠一さんの死因は、「解離性動脈瘤(かいりせいどうみゃくりゅう)」だったそうですが、
解離性動脈瘤とは、心臓から押し出された血液が最初に通る大動脈という太い血管が裂けた病態のことを言うそうで、
大動脈には、常に高い圧力で血液が流れているため、一度裂けた動脈壁はその範囲をどんどん広げていき、結果として動脈瘤に血液が貯留し、全身の血流障害が起きてしまうのだそうです。
特に、心臓から最も近い「上行大動脈」の動脈瘤が解離すると、
- 脳への血流が一瞬で止まる
- 心臓を養う冠動脈が詰まって心筋梗塞になる
- 心臓の外膜が血液で充満し動かなくなる
などの症状が起き、即死の危険が高まるそうで、
大瀧詠一さんの場合、発症部位など詳細については明かされていないため不明ですが、発症してから亡くなるまでの時間があっと言う間だったため、上記3点のうちの一つだったかもしれません。
大瀧詠一はリンゴをのどに詰まらせていた?
ちなみに、当初の報道では、
- 自宅で家族と夕食後にデザートのリンゴを食べている時に倒れて救急搬送された
- 警視庁福生警察署によると、家族は「リンゴを食べていてのどに詰まらせた」と説明していた
と、報じられたのですが、
実際、大瀧詠一さんが、リンゴを食べている時にリンゴをのどに詰まらせたかは不明です。
「大瀧詠一は山下達郎の声に衝撃を受けプロデュース&デビューさせていた!」に続く
1975年4月25日、山下達郎さん率いるバンド「シュガー・ベイブ」のアルバム「SONGS」を、自身のレーベル「ナイアガラ・レーベル」の第1弾としてリリースし、「シュガー・ベイブ」をデビューさせた、大瀧詠一(おおたき えい …