1975年4月25日、山下達郎さん率いるバンド「シュガー・ベイブ」のアルバム「SONGS」を、自身のレーベル「ナイアガラ・レーベル」の第1弾としてリリースし、「シュガー・ベイブ」をデビューさせた、大瀧詠一(おおたき えいいち)さんは、

以降、山下達郎さんをプロデュースするようになったのですが、山下達郎さんとの出会いは衝撃的だったといいます。

今回は、そんな大瀧詠一さんと山下達郎さんの出会いやエピソードをご紹介します。

大瀧詠一と山下達郎

「大瀧詠一の死因はリンゴを喉に詰まらせた急死?1週間前に寝込んでいた!」からの続き

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大瀧詠一は山下達郎と出会う前には伊藤銀次のバンド「ココナツ・バンク」のプロデュースをしていた

大瀧詠一さんは、1972年、大阪のバンド「ごまのはえ」のプロデュースをしないかと持ちかけられ、これを承諾すると、

1973年3月、「ごまのはえ」のメンバーを、大瀧詠一さんの地元の東京・福生に(共同生活を送るため)呼び寄せ、楽器練習も兼ねて、CM曲のレコーディングに起用したそうです。

また、大瀧詠一さんは、1973年の夏頃、ブルボン・ココナッツコーンのCM曲をレコーディングした際、商品名にちなみ、バンド名を「ごまのはえ」から「ココナツ・バンク」に改名させたそうです。

大瀧詠一は山下達郎の声の素晴らしさに衝撃を受けていた

そして、1973年9月21日に開催予定だった「はっぴいえんど」のラストコンサート「CITY-Last Time Around」で「ココナツ・バンク」をお披露目するため、

本番当日まで、休みなしを宣言し、(ヴォーカルに難のある「ココナツ・バンク」の)猛特訓を行ったそうです。

ただ、1日だけ休みにしたところ、その日、「ココナツ・バンク」でリードギターを務める伊藤銀次さんが大慌てで帰って来て、1枚のレコードを渡してきたそうで、

早速、大瀧詠一さんがそのレコードを聴いてみたところ、その声の素晴らしさに仰天したそうで、

大瀧詠一さんは、

それ(レコード)を銀次が持ち帰って、“てえへんだ、てえへんだ”ってことになって、早速聴いた。これはすごいと

と、語っています。

そして、この声の主を9月のコンサートに出演させようと考え、裏ジャケットに記載されていた代表者の電話番号を頼りに、幾人かを介して、なんとかこの声の主と連絡が取れたそうですが、

その人こそが、山下達郎さん(当時19歳)だったのだそうです。

ちなみに、伊藤銀次さんは、このたった1日の休みの日、高円寺にあるロック喫茶「ムーヴィン」で過ごしていたそうで、その時、ビーチ・ボーイズの美しいハーモニーが聴こえてきたそうですが、

ビーチ・ボーイズにしては音質が違い、コーラスもよく聴くと違っていたため、誰だろうと思い、店番をしていた女性に尋ねたところ、

このレコードは、ビーチ・ボーイズのカバーを収録する、山下達郎さんによる自主制作盤「ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY」であることが判明したそうで、このレコードを大瀧詠一さんに渡したのだそうです。

大瀧詠一は山下達郎に初対面で「はっぴいえんどなんて知りませんよ。聴いたこともないッ!」と言い放たれていた

こうして、大瀧詠一さんは、1973年8月18日、山下達郎さんを自宅に呼んだそうですが、

なんと、山下達郎さんは、大瀧詠一さんの家を訪れるなり、初対面の大瀧詠一さんに向かって、

ぼく、「はっぴいえんど」なんて知りませんよ。聴いたこともないッ!

と、言い放ったといいます。

また、この時、山下達郎さんは、エリー・グリニッチのシングル盤「I Want You To Be My Baby」を携えていたそうですが、

ナメられちゃいけない

と思って、大瀧詠一さんの心にグッとくるような、インパクトの強いレコードを持って来ていたのだそうです。

(エリー・グリニッチは、大瀧詠一さんが好きなガール・グループ「ロネッツ」の「ビー・マイ・ベイビー」を作曲した人)

ちなみに、大瀧詠一さんは、そんな山下達郎さんとの出会いについて、

「ぼく、はっぴいえんどなんて知りませんよ。聴いたこともないッ!」/やはり73年、はじめてわが家を訪れた山下、当時19歳(注・原文ママ)はいきなりそう叫んだのだった。怪気炎タツローの異名はこの瞬間生まれた

と、語っています。

大瀧詠一は山下達郎のバンド「シュガー・ベイブ」を自身のレーベル「ナイアガラレーベル」より「SONGS」でデビューさせていた

さておき、こうして、大瀧詠一さんは、1973年9月21日に行われた「はっぴいえんど」のラストコンサート「CITY-Last Time Around」のコーラスに、山下達郎さんが在籍するバンド「シュガー・ベイブ」を起用したのですが、

その後、「シュガー・ベイブ」のプロデュースも行うことを決めると、1975年4月25日には、「シュガー・ベイブ」のアルバム「SONGS」を、大瀧詠一さんの立ち上げたレーベル「ナイアガラ・レーベル」の第1弾としてリリースし、デビューさせたのでした。

(「SONGS」は大瀧詠一さんと山下達郎さんの共同プロデュース)

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大瀧詠一は山下達郎に出会えた1973年を「わが生涯、輝ける最良の年」と語っていた

そんな大瀧詠一さんは、「はっぴいえんど」解散の翌年の1973年は、コマーシャル・ソングの制作とプロデュース業に明け暮れ、自身のソロ楽曲のリリースは1枚もないのですが、

大瀧詠一さんは、

今にして思えばわが生涯、輝ける最良の年でしたよね

素敵な連中とあの時代に出逢えて幸せだったと思う

と、語っており、

大瀧詠一さんにとって、山下達郎さんをはじめとする素晴らしいミュージシャン達と共に過ごしたこの1973年が、どれほど、かけがえのないものだったかが分かります。

ちなみに、大瀧詠一さんは、1973年は、次の方向性がまだ見えない中、予想外のオファーを受けて制作した「三ツ矢サイダー」のコマーシャルソング「サイダー73」が大反響を呼ぶと、これをきっかけに、次々とコマーシャルソングの依頼が殺到しているのですが、

1973年の秋には、7曲目となる「三菱ラジオ・ジーガム」のCM曲に、早くも「シュガー・ベイブ」を起用しています。

「大瀧詠一は松田聖子の「風立ちぬ」を「A LONG VACATION」と対になるよう制作していた!」に続く

お読みいただきありがとうございました

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