大阪で、ロックバンド「ごまのはえ」として活動すると、その後、大瀧詠一さんのプロデュースにより、「ココナツ・バンク」と改名し、大瀧詠一さんの「ナイアガラ・レーベル」第一弾としてデビューする予定だったという、伊藤銀次(いとう ぎんじ)さんですが・・・

今回は、そんな伊藤銀次さんの、デビューと「ごまのはえ」(後に「ココナツ・バンク」)時代の経歴をご紹介します。

伊藤銀次

「伊藤銀次の生い立ちは?幼少期は歌謡曲とクラシック!中学時代はビートルズに衝撃を受けていた!」からの続き

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伊藤銀次は19歳頃に「グラス・ブレイン」を母体にしたロックバンド「ごまのはえ」を結成

大阪歯科大学を休学し、大阪でバンド「グラス・ブレイン」のメンバーとして活動するようになった伊藤銀次さんは、この頃、ロックバンド「はっぴいえんど」の曲を初めて聴いたそうで、

それまでは、日本語でロックを歌うことへの違和感が拭えなかったのが、「はっぴいえんど」の曲は、日本語でありながら、欧米のロックのようなノリがあり、それまで聴いたことがない新しさを感じたそうで、

日本語でもロックはできると思い、コピーバンドはやめて、「グラス・ブレイン」を母体にした、「ごまのはえ」というバンドを作ったそうです。

伊藤銀次は20代前半の頃「はっぴいえんど」の大瀧詠一にプロデュースを依頼していた

そして、1972年、21歳の時には、レコード会社からシングルをリリースし、このことがきっかけで、次は、アルバム制作へと進んだそうですが、

シングルはなんとか作ったものの、「ごまのはえ」はライブバンドだったため、レコーディングの経験が少なく、アルバムを作る自信がなかったことから、洋楽のバンドのような音を出し、レコーディングに長けていると思われた「はっぴいえんど」の大瀧詠一さんに、(ダメ元で)プロデュースを依頼すると、

1972年12月(伊藤銀次さん21歳)、大瀧詠一さんは、大阪まで「ごまのはえ」のライブを観に来てくれたそうで、ライブ終演後、南海ホークスの話で意気投合し、「ごまのはえ」のプロデュースをしてくれることになったのだそうです。

ちなみに、伊藤銀次さんは、

僕らは大阪のバンドだったので、コミカルでユーモアのある音楽も作っていた大瀧さんなら僕らを理解してくれるんじゃないかなと思い込んで、お願いしたんです

と、語っています。

一方、後に、大瀧詠一さんは、「ごまのはえ」のライブを聴いた際、「紙ひこうきの歌」(後に「ココナツ・ホリデー」と改題されるインストゥルメンタル曲)に“ポップさ”を感じ、プロデュースを引き受けたことを明かしています。

(大瀧詠一さんは、同じ月の12月31日に、「はっぴいえんど」を解散することになっており、まだ、次の方向性が定まっていない時期でした)

伊藤銀次は22歳の時に大瀧詠一に呼ばれて「ごまのはえ」のメンバーと共に上京していた

こうして、伊藤銀次さんたち「ごまのはえ」のメンバーは、1973年3月(伊藤銀次さん22歳)、大瀧詠一さんの地元・東京都福生市に呼ばれて、楽器車にいっさいがっさいの荷物を載せて上京し、大瀧詠一さんの自宅から歩いて2~3分のところに家を借りて、バンドメンバー5人で共同生活を始めたそうですが、

伊藤銀次さんは、この時のことを、

早朝についたら向こうからちゃんちゃんこ着て自転車に乗って、よー来たかーなんて言って。これが大滝さんなんだって思って(笑)。またあそこ(注:福生)の景色と合ってるんだよね。何かほんとに牧歌的なところでね

と、語っています。

伊藤銀次が22歳の時には「ごまのはえ」は「ココナツ・バンク」と改名していた

その後、伊藤銀次さんたちは、楽器練習に勤しむ中、ブルボン・ココナッツコーンのCM曲のレコーディングに起用されたそうで、夏頃にはレコーディングを行ったそうですが、

その際、メンバーチェンジを経て、「ごまのはえ」は、(商品名にちなみ)「ココナツ・バンク」へと改名したのだそうです。

また、1973年9月21日開催予定の「はっぴいえんど」の解散コンサートでお披露目されることになり、大瀧詠一さんによる猛特訓が始まったそうで、その猛特訓は8月から本番当日まで続いたのだそうです。

(「ごまのはえ」は、特にヴォーカルに難があったことから、大瀧詠一さんは鬼軍曹のごとくヴォーカルに歌唱指導したそうで、その間、休みは1日だけだったそうです)

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伊藤銀次は22歳の時「ココナツ・バンク」がお披露目翌日に解散となっていた

そして、「はっぴいえんど」の解散コンサート当日の1973年9月21日、「ココナツ・バンク」はバックバンドとして出演し、お披露目されたそうですが・・・

その翌日には解散することとなってしまったそうです。

というのも、当時、音楽産業は黎明期で、職業としてバンドがやっていけるかどうか分からない時代だったことから、大瀧詠一さんの厳しさ、将来の不透明さ、「はっぴいえんど」の解散コンサートで感じたプレッシャーで、メンバーたちが次々と去ってしまったのだそうです。

(そのため、「ココナツ・バンク」の唯一のスタジオ・アルバムは布谷文夫さんのバックバンドとして参加した「悲しき夏バテ」のみだったそうです)

ちなみに、「ココナツ・バンク」は、大瀧詠一さんが立ち上げたレーベル「ナイアガラ・レーベル」の第1弾としてデビューする予定だったそうですが、

「ココナツ・バンク」が解散となったため、次に大瀧詠一さんがプロデュースする予定(第2弾)だった山下達郎さん率いる「シュガー・ベイブ」が、「ナイアガラ・レーベル」第1弾としてデビューしたそうです。

「伊藤銀次の若い頃から現在までのプロデュース作品ほか経歴を時系列まとめ!」に続く

お読みいただきありがとうございました

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