まだデビュー前だった佐野元春さんの音楽に並々ならぬ才能を感じ、デビューアルバム「Back to The Street」、2枚目のアルバム「Heart Beat」にアレンジャーとして参加したうえ、バンド「佐野元春 with THE HEARTLAND」のギタリストとしても参加するなど、初期の頃の佐野元春さんの活動とブレイクに大きく寄与した、伊藤銀次(いとう ぎんじ)さん。

今回はそんな伊藤銀次さんと佐野元春さんの出会いやエピソード、伊藤銀次さんから見たデビュー当時の佐野元春さんについてご紹介します。また、伊藤銀次さんが体験したという、佐野元春さんの伝説のライブ「東松山の奇蹟」についてもご紹介します。

伊藤銀次と佐野元春

「伊藤銀次の若い頃から現在までのプロデュース作品ほか経歴を時系列まとめ!」からの続き

Sponsored Link

伊藤銀次は佐野元春のデビューアルバム「Back to The Street」にアレンジャーとして参加し衝撃を受けていた

レコード・レーベル「EPIC・ソニー」が、佐野元春さんのデビューアルバム「Back to The Street」制作に当たり、佐野元春さんがレコーディングについてほとんど素人だったことから、伊藤銀次さんと大村雅朗さんにアレンジを依頼したそうで、

伊藤銀次さんは、1980年2月、佐野元春さんのデビューアルバム「Back to The Street」(1980年4月発売)のアレンジャーとして参加したそうですが、

その際、佐野元春さんの音楽家としてのセンスの良さ、感覚の鋭さに衝撃を受けたそうで、佐野元春さんの音楽を世に知らしめることに力を貸したいと本気で思い、もし、佐野元春さんがこのまま評価されることがなかったら、もう日本の音楽シーンも終わりだろうとまで思ったといいます。

一方、佐野元春さんも、

彼らふたり(伊藤銀次さんと大村雅朗さん)が僕のヘッドアレンジを細かくまとめて、スタジオミュージシャンを交えてレコーディングする。このスタイルはセカンドアルバムまで続いた。

特に銀次は僕にとって兄のような存在だった。歳は彼のほうが上なのに、僕らの音楽体験はとても似ていた。僕がやろうとしていることをほとんどの大人が「わからない」と言っても、銀次だけは「わかるよ」と言ってくれた。とても心強かったよ。

と、語っています。

伊藤銀次は佐野元春がやけになるのを心配していた

ただ、佐野元春さんも語っている通り、佐野元春さんの音楽を世に知らしめることは決して楽なものではなく、一般的にはなかなか理解を得ることができなかったそうで、

(デビューアルバム「Back to The Street」はセールス的には振るいませんでした)

そんな中、伊藤銀次さんは、佐野元春さんがいじけたり、やけになってしまわないかと、それだけが心配だったそうで、どうか、盆栽のようにひねくれたりせず、まっすぐに伸びていってほしいと願っていたのだそうです。

伊藤銀次は佐野元春が新宿のライブハウス「ルイード」でステージを作り上げていくのを目の当たりにしていた

しかし、そんな心配はよそに、佐野元春さんは、デビュー直後から約1年間、新宿のライブハウス「ルイード」のステージに月1回出演し続けると、

(伊藤銀次さんもギターとして参加していたそうです)

ライブを1回やるごとに観客にダイレクトに響くようなアイディアを加え、少しずつステージを作り上げていったそうで、

当初は、3、4人だったお客さんも、この年(1980年)の終わりには佐野元春さんたち目当てのお客さんが押し寄せ、熱狂の渦を巻き起こしたそうです。

ちなみに、伊藤銀次さんがギターとして参加していたバックバンドは、後に「THE HEARTLAND」となり、その後、伊藤銀次さん、小野田清文さん、阿部吉剛さん、柴田光久さんのメンバーに、西本明さんが加わり、「佐野元春 with THE HEARTLAND」となっています。

Sponsored Link

伊藤銀次は「佐野元春 with THE HEARTLAND」のギタリストとして伝説のライブ「東松山の奇蹟」を体験していた

とはいえ、翌年の1981年2月にリリースされた2枚目のアルバム「Heart Beat」もセールス的にはパッとしなかったそうです。

しかし、そんな中、1981年3月6日、東松山の女子高校で在校生が卒業生を送り出す壮行会に、佐野元春さんがゲストとして呼ばれると、

ライブが始まってすぐは大人しくしていた生徒たちが、ライブが進み、いよいよクライマックス、佐野元春さんが「デトロイト・メドレー」「悲しきRADIO」のくだりに差し掛かると、

総立ちとなってステージ際まで押し寄せ、まるでビートルズのような熱狂状態になったそうで、

さらに、ステージが終わり、楽屋に戻ると、なんと楽屋の窓を叩いて熱狂している生徒までいたというのです。

(それまで、ライブをやってきた「新宿ルイード」でもそのようなことはなかったそうです)

この状況に、ベースの小野田清文さんはパニックになり、

一体どうなってんだ。まるでグループ・サウンドだよ

と、言ったそうですが、

伊藤銀次さんは、この言葉を聞きながら、

おお、信じてやっててよかった! これはきっと、ここからやっと何かすごいことが始まるきっかけにすぎない

と、確信したそうで、

実際、伊藤銀次さんの予言は見事に当たり、この日を境に、「佐野元春 with THE HEARTLAND」の快進撃が始まると、佐野元春さんは、一気にスターダムへと駆け上っていったのでした。

ちなみに、伊藤銀次さんたちにとって、この「1981年3月6日」は忘れられない日となったそうで、この日の出来事を「東松山の奇蹟」と呼んでいるといいます。

「伊藤銀次は「ウキウキWATCHING」(笑っていいともOP)を作曲していた!」に続く

お読みいただきありがとうございました

Sponsored Link