1980年、シングル「アンジェリーナ」でデビューすると、以降、「ガラスのジェネレーション」「SOMEDAY」「Young Bloods」「約束の橋」などメッセージ性の強い作品を次々と発表して人気を博した、佐野元春(さの もとはる)さん。
そんな佐野元春さんは、幼い頃は、お母さんがレコード喫茶を経営していたことから、音楽に興味を持つようになったそうですが、その一方で、手塚治虫さんに憧れて漫画家を目指し、雑誌に投稿していたこともあったといいます。
それでも、中学時代にはギターと作詞作曲を始め、高校1年生の時にはバンドを結成したそうですが、大学卒業後は、広告の制作会社に就職したといいます。
今回は、佐野元春さんの幼少期(生い立ち)から広告会社を退職するまでをご紹介します。
佐野元春のプロフィール
佐野元春さんは、1956年3月13日生まれ、
東京都台東区の出身、
身長170センチ、
血液型はB型、
学歴は、
中野区立第四中学校
⇒立教高等学校(現・立教新座高等学校)
⇒立教大学社会学部卒業
ちなみに、「佐野元春」は本名です。
佐野元春が幼い頃はレコード喫茶を経営する母親の影響で音楽に恵まれた環境で育っていた
佐野元春さんは、会社経営者のお父さんと元新劇の女優だったお母さんのもと、2人きょうだい(妹が1人)の長男として誕生すると、
幼い頃には、お母さんが青山でレコード喫茶を経営していたことから、レコードから流れてくる様々なジャンルの音楽を聴きながら育ったそうで、その影響により、音楽に興味を持つようになったそうです。
佐野元春が幼い頃は手塚治虫に憧れ漫画家を目指していた
また、佐野元春さんは、手塚治虫さん原作の「鉄腕アトム」が大好きで、手塚治虫さんに憧れ、漫画家を目指し、自身が描いた漫画をCOMという雑誌に投稿したこともあったそうです。
そして、小学校を卒業する頃には、友達3人と連れ立って、手塚治虫さんの自宅を訪ねて行ったこともあったそうで、その際には、手塚治虫さんにアニメーションを作っている所に連れて行ってもらい、帰りにはセル画を何枚かもらったそうですが・・・
ある時、徹夜で描いた漫画をお母さんに破り捨てられてしまったそうで、このことがきっかけで、急速に漫画への情熱が冷め、音楽に関心が移っていったそうで、手塚治虫さんの自宅に行った日のことは、今では嬉しい思い出になっているそうです。
ちなみに、佐野元春さんは、1998年、手塚治虫さんのトリビュートアルバム「アトム・キッズ」のレコーディングに参加しているのですが、この時が、子供の時以来の手塚治虫さんとの再会だったそうです。
佐野元春は11歳の時に海外のポピュラー音楽を初めて聴き夢中になっていた
その後、佐野元春さんは、11歳くらいの時、友人からトランジスタ・ラジオをもらったそうですが、これまで聴いたことがない海外のポピュラー音楽にたちまち夢中になったそうで、
佐野元春さんは、
11歳・12歳の頃になると、トランジスタラジオから海外のポピュラー音楽がたくさん流れてくる。それを聴いて心が舞い上がる。ビートの効いた音楽がそこにあるわけですよね。
そうすると、言葉とこのビートと、それから素敵なメロディーと、これを組み合わせたら、何かいいものができるんじゃないかと思って。
と、語っています。
佐野元春は中学2年生の時にはヘルマン・ヘッセの和訳「赤いブナの木」にメロディをつけていた
そんな佐野元春さんは、中学1年生の夏には、イギリスのロックバンド「ザ・フー」のピート・タウンゼントさんのギター姿に憧れ、ギターを始めたそうですが、
(いとこがギターを譲ってくれたそうです)
その一方で、フランスの詩人・アルチュール・ランボーやステファンヌ・マラルメの訳詩も好んで読んだそうで、中学2年生の初夏には、お気に入りだったヘルマン・ヘッセの「赤いブナの木」という和訳にメロディをつけたのだそうです。
(これが初めての作曲だったそうです)
佐野元春は高校1年生の時には作詞作曲に明け暮れる毎日を送っていた
ただ、曲を書き始めたものの、やはり一人ではつまらないと思い、高校1年生の時には、バンドを結成し、早速、「赤いブナの木」をフォークロック調で演奏してみたそうです。
すると、それを聴いた友達が「いいね!」と言ってくれたことから、ますます、作詞作曲に没頭していったそうで、以来、ほぼ毎日、詩を書いて曲を書くようになり、友達に聴いてもらったのだそうです。
佐野元春は高校1年生の時にはビート・ジェネレーションに傾倒していた
そんな中、高校1年生の夏には、ラジオを通じ、アメリカのシンガーソングライターのボブ・ディランさんを知って強い影響を受けたそうで、
ボブ・ディランさんが影響を受けたという文学を探っているうちに、詩人で作家のジャック・ケルアックを知り、ビート・ジェネレーションに傾倒するようになったそうです。
また、高校2年生の時には、軽音楽部に入部し、ピアノを始めたそうです。
佐野元春は高校3年生の時にバンド「バックレイン元春セクション」を結成していた
そして、1973年、高校3年生の12月には、音楽部が母体のバンド「バックレイン元春セクション」を結成すると、大学進学後も、同バンドの活動は続けたそうで、
1974年、大学1年生の初夏にヤマハポピュラーソングコンテストに応募し、「Bye Bye C-Boy」を歌うと、関東・甲信越地区代表になったのだそうです。
(ただ、同年10月の本選会では無冠に終わり、同時にバンドも解散したそうです)
佐野元春は「バックレイン元春セクション」が自然消滅したことがきっかけでシンガーソングライターへの道を歩み始めた
さらに、佐野元春さんは、同年(1974年)11月には、全くの別メンバーで「バックレイン元春セクション」を再度立ち上げようと試み、
山下達郎さんらの「シュガー・ベイブ」に対抗できるレベルまでもっていきたいと、渋谷のリハーサルスタジオに1ヵ月ほどこもって練習したそうですが・・・
その途中で、ドラムとベースの人がプロに引き抜かれてしまい、バンドは自然消滅したそうで、
佐野元春さんは、この時、ソロでやろうと思い、そこから、シンガーソングライターへの道を歩むことになったのだそうです。
佐野元春は大学卒業後は広告の制作会社に就職していた
その後、佐野元春さんは、大学時代には、様々なコンテストに出場し、やがて、デビューの誘いも受けるようになったそうですが、
自分のやりたい表現が日本のシーンでは絶対に受け入れてもらえない(つまり、売れない)と思ったそうで、
大学4年生の時には、早めに単位が取れたことから、生活費を稼ぐため、広告代理店でアルバイトをし、大学卒業後は、小さな広告の制作会社に就職したのだそうです。
(佐野元春さんは高校3年生の時から一人暮らしをしていたそうです)
佐野元春は20代前半の頃に広告の制作会社を退職し音楽の道に進む決意をしていた
そんな中、制作会社の社長から、
何かおもしろい企画を出してみろ
と、言われ、
佐野元春さんが、
アメリカ西海岸のFMステーション事情を取材する
という企画書を書くと、
その企画が通り、佐野元春さんは、しばらくの間、ロサンゼルスとサンフランシスコに滞在し、ソウル、ロックンロール、宗教音楽と、いろんな放送局を訪れ、ラジオステーションのディレクターやDJにインタビューして回ったそうですが・・・
ある日のこと、ソウルミュージック専門局でDJと話をしていた際、そのDJに、
ところでMOTO、お前はソングライティングをしていると話していたけど、何でいま、ここでこんなことをやっているんだ?
お前はいまこの年齢で書いた曲を、30歳になっても歌えるのか? いま書いた曲は、いま歌ってこそ、輝きのある説得力を持つんだぞ?
などと言われたそうで、
この言葉に、佐野元春さんはハッとし、ちょうどその頃、複数のレコードレーベルからデビューの誘いを受けていたことから、帰国後、取材した分の番組だけ作りあげると、会社を辞めたのだそうです。
「佐野元春の若い頃は?サムデイほかヒット曲やアルバムを時系列まとめ!」に続く
1980年、24歳の時、シングル「アンジェリーナ」でレコードデビューすると、その後、しばらくはパッとしなかったものの、1982年、アルバム「SOMEDAY(サムデイ)」が初のヒットを記録すると、 1984年にリリースした …