1972年、20歳頃、ユウ岡崎さんの逮捕に伴って、ロックバンド「キャロル」にドラマーとして加入するも、数ヶ月後、ユウ岡崎さん復帰後は、入れ替わりで脱退し、その後は、「ダウン・タウン・ブギウギ・バンド」に参加した、相原誠(あいはら まこと)さん。

そんな相原誠さんは、「ダウン・タウン・ブギウギ・バンド」脱退後は、自身のバンドで活動するかたわら、様々なバンドのサポートを務め、55歳からはシンガーソングライターとしても活動していたといいます。

今回は、相原誠さんの若い頃(キャロル時代)からの経歴を、生い立ちを交えてデビューから時系列でまとめてみました。

相原誠

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相原誠のプロフィール

相原誠さんは、
秋田県秋田市土崎港(つちざきみなと)の出身、

学歴は、
泰明小学校
⇒中学校卒業

だそうです。

相原誠は中卒で上京していた

相原誠さんは、ボイラーの特級技師だったお父さんのもとに誕生すると、中学卒業後は高校に進学せず、15歳の時に上京したそうで、

相原誠さんは、

15の時には、もう秋田からドロップアウトしていたよ。

高校なんて行ってないから。中学も最後の方は行かなかった。

学校って、……、要はものの考え方よ。若い時なんて、学ぼうとしても、まだ頭が悪いんだから学ぶに至らない。だから、大人になった今、学んでいるんだから。

俺は一方でそういう教育も必要だと思うんだよな。若い時は遊ぶことが精一杯で、学ぶ暇なんかないよ(笑)ましてや、アルマーニか何か着て学校行ったって勉強なんて出来ない(笑)

などと、語っています。

相原誠はバンドボーイとしてドラムを組み立てているうちにドラムに愛着が湧くようになっていた

そんな相原誠さんは、上京後は、青山、六本木、赤坂などで、昼間はジャズ喫茶(現在のライブハウス)、夜はキャバレー、夜中にサパークラブで楽器を運ぶバンドボーイ(ローディー)の仕事をしていたそうですが、

アンプだけですぐにセッティングできるギターと違い、ドラムはセッティングを始めると組み立てるのが大変で、一人でかかりきりになっていたことや、組み立てた後にドラムを叩いたりしていたことから、

やがて、自然とドラムに愛着が湧くようになったそうで、アマチュアバンドのドラマーとして活動を始めたそうです。

(バンドボーイの月給は6000円だったそうですが、住み込みだったため、1円も使わなかったそうです)

相原誠は19歳~20歳の時に矢沢永吉を新バンドに誘うも断られていた

そんな中、相原誠さんは、アマチュアバンドの活動で富山のゴーゴー喫茶に行き、半年ほど経った頃には、自身のバンドを組みたいと思い立ち、東京に帰ってきたそうですが、

川崎の方に面白い奴らがいる

と、聞きつけて、川崎に向かうと、

そこで、矢沢永吉さん、内海利勝さん、ジョニー大倉さんと知り合ったそうで、

相原誠さんが、

今度、バンドをやろうと思うんだけど一緒にやらないか?

と、誘ったそうですが、

矢沢永吉さんたちには、

俺たちも新しいバンドを始めるんだ

と、言われたそうで、

ドラムは既にユウ岡崎さんに決まっていたのだそうです。

(この矢沢永吉さんたちのバンドが「キャロル」)

相原誠が20歳~21歳の時には逮捕されたユウ岡崎の代わりに「キャロル」のドラマーに誘われていた

しかし、その後、相原誠さんが、たまたま、「キャロル」のメンバーの練習場の近くを歩いていると、メンバーから、

おーい、誠、叩いてくれよ!

と、声をかけられたそうで、

相原誠さんが、一発ドラムを叩いたところ、

明日から頼む!

と、言われたのだそうです。

というのも、「キャロル」のドラマーだったユウ岡崎さんは、2枚目のシングル「ヘイ・タクシー/恋の救急車」(1973年1月25日発売)のレコーディング終了後、薬物に関する不祥事を起こして逮捕され、活動できなくなってしまっており、

「キャロル」は、ドラムをオーディションで探していたそうで、ちょうどその時、相原誠さんが練習場の近くを通りかかったことから、声をかけられたのでした。

相原誠はミッキー・カーチスに紹介されて「キャロル」に加入した話を否定していた

ちなみに、通説では、ユウ岡崎さんが逮捕されて活動できなくなり、ミッキー・カーチスさんが相原誠さんを「キャロル」のメンバーに紹介したとされているのですが、

相原誠さん本人は、

いや、ただ、奴らの練習場の近くを俺が歩いていただけだよ(笑)

と、この話を否定しています。

こうして、相原誠さんは、「キャロル」の3枚目のシングル「やりきれない気持ち/ホープ」、ファースト・アルバム「ルイジアンナ」の「やりきれない気持ち」「ホープ」「ワンナイト」でドラムを担当するほか、アルバム「ルイジアンナ」のジャケット写真にも写っているのですが・・・

相原誠
「キャロル」のファーストアルバム「ルイジアンナ」。(左から)ジョニー大倉さん、内海利勝さん、矢沢永吉さん、相原誠さん。

相原誠は20歳~21歳の時にユウ岡崎が仮釈放されると同時に「キャロル」をクビになっていた

3枚目のシングル「やりきれない気持ち/ホープ」(1973年2月25日発売)のレコーディング終了後、ユウ岡崎さんが仮釈放されると、

相原誠さんは、矢沢永吉さんとレコード会社の意向で、ユウ岡崎さんが仮釈放されると同時にクビされてしまったといいます。

ちなみに、矢沢永吉さんは、ジョニー大倉さんに、相原誠さんを説得して外すというきつい仕事を頼んだそうで、

ジョニー大倉さんは、自伝「キャロル夜明け前」で、

どうしてそんなことが平然とできるんだ。ぼくは悲しくなった。 なぜそんなにクールに割り切れるんだ

と、綴っているのですが、

結局、ジョニー大倉さんは、矢沢永吉さんに従い、内海利勝さんと共に相原誠さんへの説得にあたったと言われています。

相原誠は「キャロル」脱退後は「ダウン・タウン・ブギウギ・バンド」に参加していた

「キャロル」脱退後、相原誠さんは、運送会社で運転手の仕事をしていたそうですが、半年ほど経った頃、宇崎竜童さん率いる「ダウン・タウン・ブギウギ・バンド」(初期)にドラマーとして参加しています。

ちなみに、「ダウン・タウン・ブギウギ・バンド」といえば、”つなぎ姿”が有名ですが、これは相原誠さんのアイデアだったそうで、

ある時、湘南の海でライブがあった際、「なにかいいユニホームがないかな?」という話になり、相原誠さんが、

俺んちにつなぎがあるから、皆でそれ着て出たらいいんじゃない

と、提案し、つなぎを着ることになったのだそうです。

すると、なぜか観客に受けたそうで、

相原誠さんは、

(バンドがウケたというよりも)いや、俺等というより、つなぎが受けた(笑)

だっておかしいじゃん。いい年した男が4人で職工みたいな格好して、エレキ弾いてドラムを叩けば。

その前は、友人がいたファッションメーカー「グラス」から、切り返しパンツとかアロハとかその時期の最新の服を作ってもらって着ていたんだけど、結局は3500円のつなぎのほうが受けた(笑)

と、語っています。

ダウンタウン・ブギウギ・バンド
「ダウンタウン・ブギウギ・バンド」。右から2番目が相原誠さん。

相原誠は「ダウンタウン・ブギウギ・バンド」脱退後は自身のバンド「JABB」「SUCKING ROUGE」で活動していた

そんな相原誠さんは、1976年、23歳~24歳の時には、「ダウンタウン・ブギウギ・バンド」を脱退すると、その後は、自身のバンド「JABB」「SUCKING ROUGE」を結成し、その活動のかたわら、「ARB」、原田芳雄さんら、数多くのミュージシャンのサポートとしても活動し、2003年には、イベント「dmx in YAON」もプロデュースしています。

(イベント「dmx in YAON」には、「ダウンタウン・ブギウギ・バンド」「頭脳警察」「ARB」「CRAZY KEN BAND」「THE STREET BEATS」「JAMES」「MIRROR」などが出演しています)

相原誠は55歳の時にシンガーソングライターの活動を始めていた

また、相原誠さんは、55歳からはシンガーソングライターとしても活動を始めているのですが、

一方で、新宿の老舗ロックバー「VELVET OVERHIGH’M d.m.x.」、ライブハウス「スモーキン・ブギ」などを経営するほか、ラーメン店を開業したり、古物商をやったりと、実業家としても活動しています。

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相原誠の死因は虚血性心不全

そんな相原誠さんは、2018年頃には、河内一作さんとの対談で、「106歳まで生きる」と陽気に語っていたのですが・・・

いつ頃かは不明ですが、病気を患ったようで、2020年4月13日、午後3時5分、虚血性心不全により、68歳で他界されています。

お読みいただきありがとうございました

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