矢沢永吉さんと共にロックバンド「キャロル」で一斉を風靡すると、ソロとなった後は、俳優業でも才能を発揮した、ジョニー大倉(じょにー おおくら)さんですが、
荷役の親方だったお父さんとその愛人で在日韓国人だったお母さんのもとに誕生していたことから、お父さんが幼少期に他界すると、在日韓国人であることを理由にイジメられ、つらい日々を送っていたそうで、
そんな中、中学生の時に、ビートルズに衝撃を受け、音楽を志すようになると、高校を2年で中退し、本格的に音楽活動を始めたといいます。
今回は、ジョニー大倉さんの、生い立ち(幼少期から矢沢永吉さんとの出会いまで)をご紹介します。
ジョニー大倉のプロフィール
ジョニー大倉さんは、1952年9月3日生まれ、
神奈川県川崎市の出身、
身長172センチ、
体重67キロ、
血液型はAB型、
学歴は、
川崎市立田島小学校
⇒川崎市立渡田中学校
⇒川崎市立川崎高等学校中退
ちなみに、ジョニー大倉さんは、在日韓国人2世で、2000年代初めに日本国籍取得しており、本名は「大倉洋一」(おおくら よういち)、出生名(韓国名)は「朴 雲煥」(パク・ウナン)です。
また、公式プロフィールでは、長い間「1951年生まれ」となっていたそうで、帰化するに当たり、韓国から戸籍を取り寄せた際、1952年生まれであったことが判明したそうで、
ジョニー大倉さんは、
戦後10年ぐらいは、在日にはそんなことがよくあったんだよ
と、語っています。
ジョニー大倉は幼少期に父親が他界し在日韓国人の母親と共に朝鮮人部落で暮らしていた
ジョニー大倉さんは、荷役(船荷を上げ下ろしする仕事)の親方だったお父さんと、その愛人で在日韓国人だったお母さんのもとに誕生すると、幼い頃は裕福な家庭で育ったそうですが、
ジョニー大倉さんが5歳の時に、お父さんが病気で他界したそうで、在日韓国人だったお母さんは、知人を頼り、ジョニー大倉さんら3人の子供を連れて、川崎の朝鮮人部落に身を寄せて暮らし始めたそうです。
ただ、お母さんは、在日韓国人ではあるものの、日本で生まれ育っていたことから、朝鮮人部落に耐えられず、1年も経たないうちに、朝鮮人部落を離れると、日本人社会で生活するようになったそうです。
ジョニー大倉は小学校時代は在日韓国人であることを理由にイジメられていた
そんな中、ジョニー大倉さんは、韓国語も話せず、自分が韓国人だと思ったことはなかったそうですが、
小学校に入ると、学校で石を投げられたり、何かあるとすぐに、
お前なんか、朝鮮人じゃないか
と、言っていじめられたそうで、
お母さんに、
なんで生んだんだようー
と、食ってかかったこともあったそうです。
ジョニー大倉は中学の時にビートルズの映画を観て衝撃を受け音楽の道を志していた
こうして、小学生時代、つらい日々を送っていたジョニー大倉さんですが、中学生の時、ビートルズの映画を見て衝撃を受けると、音楽の道を志したそうで、
中学卒業後は、高校に進学するも、2年生の時に中退すると、本格的に音楽活動を開始し、ロックバンド「アンナ」やビートルズのコピーバンド「ジュリア」を結成したそうです。
(ジョニー大倉さんは、ハンブルク時代(デビュー前)のビートルズから多大なる影響を受けたそうです)
ジョニー大倉は19歳の時に矢沢永吉と出会っていた
その後、ジョニー大倉さんは、「ジュリア」を解散し、ぶらぶらしていたそうですが、
1972年4月、19歳の時、川崎駅近くの一角にあった「イトウ楽器店」で、たまたま、矢沢永吉さんの、
ビートルズとロックンロール好きなヤツ、求ム!
という、バンドメンバー募集の張り紙を見て、矢沢永吉さんに連絡したそうで、
矢沢永吉さんと京急川崎駅で待ち合わせをし、近くの喫茶店で2~3時間、話をした後、矢沢永吉さんの新しいバンドに加わったのだそうです。
(矢沢永吉さんは、「ヤマト」というバンドを結成して活動し、芸能界デビューを狙っていたのですが、これからという時に、次々とメンバーに去られてしまい、なんとかこの状況から抜け出すために新しいバンドを作ろうとメンバー募集をかけていたのでした)
「【画像】ジョニー大倉の若い頃は矢沢永吉らとキャロル!デビューからの経歴を時系列まとめ!」に続く
1972年、ロックバンド「キャロル」としてデビューし、1975年に解散すると、その後は、ソロとして活動するかたわら、俳優業でも才能を発揮し、 1975年には、映画「異邦人の河」で主演を務めるほか、1981年には、映画「遠 …