中学2年生の時、「ビートルズ」の曲「Please Mr. Postman」を初めて聴き、ロックスターに憧れるも、高校1年生の時点では、あくまで、将来の夢は、板金屋の親方になるという将来設計を立てていた、矢沢永吉(やざわ えいきち)さんですが、高校卒業後、ついに、ロックスターを目指し、上京されます。

「矢沢永吉の少年時代の夢は板金屋の親方?愛読書は「人を動かす」だった!」からの続き

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ギターを習う

板金屋の親方になるという、堅実な将来設計を立てるも、どんどん、ロックの虜(とりこ)になっていった矢沢さんは、高校2年生の時には、アルバイトで貯めたお金で、「グヤトーン」のエレキギターを12500円で購入し、「山中ジャズスクール」の夜間学校に通って、ギターを習い始めます。

そして、高校3年生の時には、おばあちゃんにドラムセット(5万円位)を買ってもらうなど、音楽活動を本格化すると、この頃、「I LOVE YOU, OK」の原曲を作曲されます。

卒業証書を破り捨てる

そんな矢沢さんは、1968年3月、高校3年生の卒業間近、慢性の「盲腸炎」になり、医者には薬で散らせると言われるも、手術で盲腸を除去。

1週間入院すると、退院する日が卒業式だったそうで、医者からは、「動いちゃいけない」と言われるも、どうしても、卒業証書をもらってケリをつけないと気が済まず、手術後の痛みをこらえながらバイクを走らせ、学校に行ったそうですが、卒業式はすでに終わっており、教室でミーティングをしていたそうです。

すると、担任の教師が、

おう、おまえやっときたのか

という感じで、ぞんざいに卒業証書パッと手渡してきたそうで、矢沢さんは、(予定通り、ケリをつけるべく)その卒業証書を破り捨てたのだそうです。

高校卒業と同時に上京

そして、1968年4月、矢沢さんは、ロックシンガーになるべく、アルバイトで貯めた5万円を持って、広島から最終の東京行きの夜行列車で出発。

ただ、東京駅に着くまでに、長時間の移動でお尻が痛くなったのと、「ビートルズ」の出身であるリヴァプールと同じ港町ということから、横浜駅で途中下車すると、伊勢佐木町の食堂で住み込みの仕事を始め、そこで働きながら、バンド活動を開始。

3ヶ月後には、東芝EMI(現・EMIミュージック・ジャパン)に行き、歌詞なしの「I LOVE YOU, OK」「ひき潮」を歌われたのですが・・・

「売れない」と断られてしまい、CBSソニーにも持ちこむも、こちらもあえなく不採用になってしまったそうで、

矢沢さんは、

どうしてオレの才能がわからないんだ

と、憤ったのでした。

(テープを「東芝EMI」に持ち込んだのは、「ビートルズのレコードを出しているから」というのが理由だったそうです)

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危うく親戚一家皆殺し?

その後、矢沢さんは、中華街に場所を変え、陸送、電気溶接、ちり紙交換、アイスクリーム屋などでバイトをしながら、音楽活動を続けられていたのですが、おばあちゃんに預けていたドラムセットを引き取るため、故郷・広島に帰ります。

しかし、なぜか、ドラムセットはおばあちゃんの家にはなく、おばあちゃんは、ただ、困った顔をしているだけで答えたがらず、ようやく、おじさんの家にドラムセットがあることが分かり、

矢沢さんは、おじさんに、

これはおばあちゃんがオレに買ってくれたものだから返してくれ

と言ったそうですが、

おじさんは、

おまえなんか、歌の世界かなんか知らんけど、そういうとこへ行って何すンの?

と、冷たく言い放つと(矢沢さん的にはそこまでは、まだ許せたそうですが)、

続けて、

そうか、どうしてもドラム欲しいか

と言われ、

矢沢さんは、「オレのドラムセットだよ」と心のなかでつぶやいたそうですが、

その直後、なんと、

売ってやる

と、言われたのだそうです。

これには、さすがの矢沢さんもキレてしまい、その瞬間、ありったけの声を張り上げ、

おまえら、全員見とけー!

あと5年かかるか、10年かかるかわかんねえけど、お前ら全員、土下座させてやる!全員見返してやる!

と、叫び、泣きながら外に飛び出すと、そのままバスに飛び乗り、広島駅に向かったのだそうです。

(あやうく一家全員、皆殺しにしてしまいそうなほど、抑えがたい怒りがこみ上げたそうです)

「矢沢永吉の最初のバンドは?ザ・ベース⇒イーセット⇒ヤマト⇒キャロル!」に続く

https://www.youtube.com/watch?v=0WXrIzpGj_U

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