1972年12月20日、ついに、「キャロル」として、シングル「ルイジアンナ/最後の恋人」でデビューすると、火花を散らすような激しいステージが若い世代に圧倒的支持を受け、瞬く間にスターダムへのし上がった、矢沢永吉(やざわ えいきち)さんですが、人気とは裏腹に、バンド内は波乱に満ちていました。

「矢沢永吉のデビューはミッキーカーチスがプロデュース!内田裕也もオファー?」からの続き

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ユウ岡崎の逮捕で相原誠が加入するも・・・

というのも、2枚目のシングル「ヘイ・タクシー/恋の救急車」(1973年1月発売)のレコーディング終了直後、ドラムスのユウ岡崎さんが傷害事件を起こして逮捕。

そのため、ユウ岡崎さんの代わりに、相原誠さんがミッキー・カーチスさんの紹介でドラムスとして加入したのですが・・・


右端が相原誠さん。

3枚目のシングル「やりきれない気持ち/ホープ」(1973年2月)のレコーディング終了後、ユウ岡崎さんが仮釈放されると、矢沢さんとスタッフは、相原さんをクビにして、ユウ岡崎さんを「キャロル」に戻したのです。


左手前がユウ岡崎さん。

この都合のいい人事に、相原さんの落胆は酷かったそうで、これを聞いたジョニーさんと内海さんは耐えきれず、3人で一晩中飲み明かし、夜明けの路上では、寝転がって泣き、わめき、ヘドを吐いたといいます。

ジョニー大倉が失踪し猿山幸夫が加入するも・・・

また、ツアー中の1973年11月25日(小樽公演の翌日)には、ジョニー大倉さんが体調が悪いと訴えたことから、ほかのメンバーが飛行機で帰る中、ジョニーさん一人だけ、電車で帰京されるのですが、そのまま失踪。


当時のジョニー大倉さん。

矢沢さんたちは、しばらく3人で活動を続けながら、ジョニーさんを待ち、探したのですが、ジョニーさんは見つからず。

そのため、1974年1月にはオーディションを行い、ジョニーさんの代わりに、サミーこと猿山幸夫さんがギターとして加入するのですが・・・


サミーこと猿山幸夫さん。

同年2月中旬頃、ジョニーさんが川崎の精神病院が見つかり、ジョニーさんがメンバーとスタッフに詫びを入れたことで、ジョニーさんが復帰。それに伴い、サミーさんも約1ヶ月で解雇となったのでした。

ちなみに、ジョニーさんは、「キャロル」結成時、ドラッグに依存する生活を送っており、精神病院に入院して、一時期、連絡がつかなったことがあり(半年後に現れた時には、顔中に切り傷があるような状態だったそうです)、今回は2回目の失踪。

この出来事で、矢沢さんのバンド内での影響力はさらに増し、もともと、「キャロル」のコンセプトを作っていたジョニーさんに代わり、矢沢さん(の性格、生き方など)が、「キャロル」の方向性を決めていったのでした。

売れれば売れるほどミッキーカーチスに印税が?

さらには、思い通りにやってきたはずの矢沢さんも、「キャロル」が売れれば売れるほど、ミッキーカーチスさんと「日本フォノグラム」への印税が増える、通常より不利な契約を結んでいたことに、不満を募らせ、

日本フォノグラムは、アーティストとして、オレの気持ちを無視してきた。オリジナルアルバムは三枚しかないのに、キャロルの承諾もなしに、曲順を変えて、タイトルを変えて、ジャケットを変えて、さもニューアルバムのように見せかけて、新しいアルバムを作ってきた。そんなイカサマ商売をしてきた。

何度も「イメージが悪くなるからやめてくれ」と言っても、「おまえらに言われる筋合いはない」と無視してきた。オレは日本フォノグラムは絶対に許さない。

と、おっしゃっています。

しかも、「キャロル」は4年契約を結んでいたのですが、2年半で解散してしまったため、解散後もこの契約だけが残り、「日本フォノグラム」からは千数百万という莫大な違約金を請求されたようで、

矢沢さんは、ソロデビューにあたり、移籍先の「CBSソニー」から借金をして、キャッシュで違約金を支払ったと言われています。

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ミッキーカーチスに騙されていた?

ちなみに、この話を聞くと、ミッキーさんがひどい人のように感じますが、特に、ミッキーさんが矢沢さんを騙したというわけではなく、当時はこのような契約が普通で、誰も文句を言わずのんでいたところ、矢沢さんだけが対抗されたようで、

今では当たり前となっている「アーティストの権利」は、矢沢さんらが開拓していったようです。

「矢沢永吉のキャロル解散原因はジョニー大倉の逆恨みだった?」に続く

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