1972年、ロックバンド「キャロル」としてデビューし、1975年に解散すると、その後は、ソロとして活動するかたわら、俳優業でも才能を発揮し、
1975年には、映画「異邦人の河」で主演を務めるほか、1981年には、映画「遠雷」で第5回日本アカデミー賞優秀助演男優賞を受賞した、ジョニー大倉(じょにー おおくら)さん。
今回は、そんなジョニー大倉さんの波乱万丈の経歴を、若い頃(デビュー)から時系列でまとめてみました。
「ジョニー大倉の生い立ちは?幼少期は在日韓国人でイジメ!中学時代ビートルズに衝撃を受けていた!」からの続き
ジョニー大倉は10代の時に矢沢永吉らとロックバンド「キャロル」を結成すると大ブレイク
19歳の時に自殺を図り精神病院に入院していた
ジョニー大倉さんは、1972年4月、19歳の時に、矢沢永吉さんのバンドメンバー募集の張り紙を見て連絡すると、その後、矢沢永吉さんの新バンドに加入するのですが、
実は、この頃、ジョニー大倉さんはドラッグに依存する生活を送っていたそうで、直後に自殺を図り、精神病院に入院していたといいます。
19歳の時、矢沢永吉、内海利勝とロックバンド「キャロル」を結成
それでも、半年後、ジョニー大倉さんは、精神病院を退院すると、再び矢沢永吉さんの元を訪れ、ジョニー大倉さん、矢沢永吉さん、内海利勝さんの3人でロックバンド「キャロル」を結成します。
ちなみに、バンド名「キャロル」は、ジョニー大倉さんの提案によるものだったそうで、ジョニー大倉さんは、自著「キャロル夜明け前」に、
「オレはさぁ、ゴールデン・バットがイケてると思うんだけど」永ちゃんが言った。「ルーシーっていうのはどうかな?」ウッちゃんが言った。「ジョニーはさぁ、何がいいと思う?」永ちゃんがぼくに訊いた。
「キャロルっていう名前がいいよ」ぼくは答えた。ぼくの頭の中には『クリスマス・キャロル』の神聖なイメージがあった。なぜだかわからない。でも、このバンド名以外にピッタリくるものはない、と直感したのだ。
と、綴っています。
ジョニー大倉は20代の時に「キャロル」でブレイクすると解散後はソロ活動のかたわら映画「異邦人の河」「遠雷」に出演
20歳の時に「キャロル」としてデビュー
こうして、1972年8月、19歳の時、ジョニー大倉さんは、「キャロル」として、横浜のディスコ”ピーナッツ”でステージデビューすると、以降、蒲田のキャバレーなどで精力的に演奏活動を続け、
同年10月には、テレビ番組「リブヤング」に出演し、革ジャンにリーゼントというスタイルで、ストレート・ロックンロールを演奏すると、
それを自宅で見ていたミッキー・カーチスさんからプロデュースを申し込まれ、同年12月、20歳の時に、「ルイジアナ/最後の恋人」でレコードデビューを果たすと、たちまち大ブレイクしたのでした。
「ルイジアナ/最後の恋人」
21歳の時に人気絶頂期を迎えるも2度目の失踪
その後の半年間、ジョニー大倉さんたち「キャロル」は、月に1枚のペースで次々とシングルをリリースし、1973年6月までに7枚のシングルをリリースすると、
7枚目のシングル「ファンキー・モンキー・ベイビー」が30万枚を売り上げる大ヒットを記録し、社会現象になるほどのブームを巻き起こします。
(ジョニー大倉さんは、「キャロル」では、主に作詞を担当していたのですが、日本語を英語のように発音する 「巻き舌歌法」と呼ばれる独特の作詞法を生み出し、これは、キャロルサウンドの大きな特徴の一つとなっています)
ただ、そんな人気絶頂だった、1973年11月25日(21歳)、ツアー中だった小樽公演の翌日、ジョニー大倉さんは、体調が悪いと訴え、ほかのメンバーが飛行機で帰る中、ジョニー大倉さん一人だけ、電車で帰京したそうですが、そのまま失踪。
(実は、ジョニー大倉さんは、薬物常用による鬱(うつ)症状が出て、精神病院に入院していたのですが、矢沢永吉さんたちメンバーに連絡をしていなかったことから、矢沢永吉さんたちは、活動を続けながらジョニー大倉さんを探していたそうです)
その後、1974年2月中旬頃、ジョニー大倉さんは、メンバーとスタッフに詫びを入れたことで復帰するのですが、今回が失踪2回目ということで、それまで、「キャロル」のコンセプトを作っていたジョニー大倉さんに代わり、矢沢永吉さんの影響力が増していったのでした。
(ジョニー大倉さんは、それ以来、精神の安定をはかるため、空手を習うようになったそうです)
22歳の時に「キャロル」解散
その後も、「キャロル」は、1974年3月、パリでのやまもと寛斎さんのショーに出演して、「ルイジアナ」「ヘイ・タクシー」「憎いあの娘」を演奏するほか、帰国後の4月13日からは全国ツアーを開始するなど、精力的に活動していたのですが・・・
1975年4月13日(ジョニー大倉さん22歳)、メンバーの音楽性の違いを理由に、日比谷音楽堂で解散したのでした。
23歳の時にアルバム「JOHNNY COOL」でソロデビュー
「キャロル」解散後、ジョニー大倉さんは、1976年3月25日、ソロとしてファーストアルバム「JOHNNY COOL」をリリースすると、これを皮切りに、
- 1976年11月5日「JOHNNY WILD」
- 1977年4月25日「トラブル・メーカー/ジョニー&ダーリン」
- 1977年6月25日「ポップン・ロール・コレクション/ ジョニー&ダーリン」
- 1977年11月5日「ロックン・ロール・ドキュメント’77/ ジョニー&ダーリン」
- 1978年2月25日「GOING MY WAY」
と、ストレートなロックンロールを追求した作品を次々と発表します。
22歳の時に映画「異邦人の河」で主人公の在日韓国人役
そんなジョニー大倉さんは、ソロミュージシャンとしての活動と並行し、俳優としても活動を開始すると、
1975年、22歳の時には、映画「異邦人の河」で、出自を隠して働く在日韓国人の自動車修理工役を演じています。
(ジョニー大倉さんは、この映画では、出生名の「朴 雲煥」でクレジットされています)
「異邦人の河」より。ジョニー大倉さんと大関優子さん。
29歳の時に映画「遠雷」で日本アカデミー賞優秀助演男優賞を受賞
そして、1981年、29歳の時には、映画「遠雷」で人妻と駆け落ちした主人公の友人役を演じると、その演技が評価され、日本アカデミー賞優秀助演男優賞を受賞しています。
ジョニー大倉は30代の時に富山のホテルの7階から転落して(飛び降り?)重傷を負っていた
31歳の時に大島渚監督の映画「戦場のメリークリスマス」に出演
そんなジョニー大倉さんは、1983年、31歳の時には、大島渚監督の映画「戦場のメリークリスマス」にも出演しています。
「戦場のメリークリスマス」より。
35歳の時に富山のホテルの7階から転落して(飛び降り?)重傷を負っていた
その後も、ジョニー大倉さんは、映画やテレビドラマに精力的に出演し、1986年には、NHKの時代劇「武蔵坊弁慶」に出演。
さらには、1988年のNHK大河ドラマ「武田信玄」にも出演が決まっていたのですが・・・
すでにその2話分を撮り終えた1987年10月25日、富山のホテルの7階から転落し、全治6ヶ月の重傷を負ってしまいます。
ちなみに、ジョニー大倉さんは、この頃、歌を歌っても声が出なくなるほか、作詞家の阿久悠さんと組み、あの手この手で売り出すもパッとせずに音楽活動は低迷し、ストレスを抱えていたそうで、泥酔や薬物を含め、自ら飛び降りたことが疑われましたが、
ジョニー大倉さん本人は、
ベッドの上に立って窓を勢いよく開けたら、すべってそのまま落ちただけ
と語り、否定しています。
ただ、2004年に、窪塚洋介が転落事故を起こした際には、
彼も僕も(自殺)未遂じゃない。自分もキャロル時代は何かを埋める為に奇行に走っていた
と、語っており、
自ら飛び降りた(奇行)とも取れます。
ジョニー大倉が40代の時はVシネマで復活!引きこもり生活から空手道場に再入門していた
40代の時にはVシネマで復活していた
その後、ジョニー大倉さんは、ケガから復帰すると、
- 1990年(38歳)には、「獣のように」
- 1992年(40歳)には、「爆走トラッカー軍団 シリーズ」
- 1993年(41歳)には、「銀玉命!銀次郎 シリーズ」
- 1994年(42歳)には、「けんか屋 伝説の裏ケンカ師!無敗伝説」
- 1994年(42歳)には、「XX ダブルエックス 美しき狩人」
- 1999年(47歳)には、「日本極道史 仁義絶叫3 仁義関東嵐」
- 2000年(48歳)には、「本気! 16 報復編」
などのVシネマに出演するようになったのですが・・・
2~3年間、引きこもり生活を送るも心機一転して空手道場に再入門していた
40代のある時期、2~3年もの間、家に閉じこもり、昼間から睡眠薬やお酒を飲み、ピザを頼むなど、退廃的な生活を送っていたといいます。
というのも、ジョニー大倉さんは、
若き日のキャロルはひとつの時代をクリエイトしたというのに、日本という社会はそういった人間たちをなぜリスペクトしないのか
と、考えてしまい、たまらくなったのだそうです。
ただ、ジョニー大倉さんは、46歳の時、そんな風に考えてしまう腐った心を直そうと、一番キツいとされる空手家の真樹日佐夫さんの道場に再入門したそうで、そこでは、100キロ以上ある先輩弟子たちにボコボコにされたそうですが、
どうせ死ぬなら、道場で死んだほうがいいと思い、特訓に励み、ついには黒帯を取得したそうで、
ジョニー大倉さんは、
キャロルとか在日とか、僕の人生のいろんなものが汗で流れた。それで50歳で黒帯になりました。
と、語っています。
ジョニー大倉は50代の時に悪性リンパ腫に罹患するも克服していた
そんなジョニー大倉さんは、2009年、57歳の時には、悪性リンパ腫に罹患するも、放射線治療を受け、悪性リンパ腫を克服すると、
その後は、都内ライブハウスなどで精力的にライブ活動を行なっていたといいます。
ジョニー大倉の死因は?
しかし、2013年6月には、肺ガンで余命2週間の宣告を受けてしまいます。
それでも、ジョニー大倉さんは、抗ガン剤治療を受け、2014年3月に退院すると、翌4月には約1年ぶりのステージに立つまでに回復したのですが・・・
同年8月に再発し、再入院して抗ガン剤治療を続け、翌年(2015年)のデビュー40周年へ向けて年内の退院を目指していた中、2014年11月19日、肺炎により、62歳で他界されたのでした。
「ジョニー大倉の妻との馴れ初めは?息子はケニー大倉と大倉弘也!娘は?」に続く
1975年、ロックバンド「キャロル」解散後は、ソロ活動をしつつ、俳優としても活動を始め、1981年には、映画「遠雷」で日本アカデミー賞優秀助演男優賞を受賞した、ジョニー大倉(じょにー おおくら)さん。 今回は、そんなジョ …