1959年、「愛と希望の街」で映画監督デビューして以来、「青春残酷物語」「太陽の墓場」「絞死刑」「儀式」「愛のコリーダ」「戦場のメリークリスマス」など、体制や権力に真っ向から立ち向かう、社会性の高い作品を次々と発表し、世界的にも高く評価された、映画監督の大島渚(おおしま なぎさ)さん。今回は、そんな大島さんの知られざる生い立ちについてご紹介します。

Sponsored Link

出身は?学歴は?本名の由来は?妹は?曽祖父は?

大島さんは、1932年3月31日生まれ、
京都府京都市の出身、

学歴は、
京都府立京都第二中学校
⇒京都市立洛陽高等学校(現在の京都市立京都工学院高等学校)
⇒京都大学法学部卒業

趣味は野球観戦で、大の酒好き、

ちなみに、「大島渚」は本名で、お父さんが仕事の関係で瀬戸内海を転々としていたことから、その瀬戸内海にちなんで、お母さんが「渚」とつけたのだそうです。

また、妹は、女優でプロデューサーの大島瑛子さん、曽祖父は、幕末から明治維新にかけて、勤王の志士として活躍した、対馬藩士の大島友之允(おおしま とものじょう)だそうです。

幼少期は父の仕事の関係で瀬戸内海を転々とする

大島さんのお父さんは、農林省の水産学者で、エビやカニの研究をしていたことから、お父さんとお母さんは岡山で暮らしていたそうですが、

お母さんが病気でお産が危ぶまれたため、大事をとって、(お母さんの)お兄さんがインターンをしていた京都大学に入院すると、大島さんは、そのまま、お母さんの郷里である京都府京都市で誕生したそうです。

そして、1歳の時には、お父さんの仕事の関係で、兵庫県明石二見町へ引っ越しをし、さらにその後は、広島県の大長、岡山県笠岡のはずれなど、瀬戸内海を転々としたそうですが、6歳の時には、お父さんが笠岡で他界し、また、お母さんの実家がある京都に戻ったそうです。

中学時代は野球部だった

大島さんは、幼い頃は体が弱く、運動が苦手だったため、外で遊ぶよりも、お父さんが遺してくれた本を家の中で読むのが好きな子供だったそうですが、

中学時代には、草野球チームに入部したそうで(ポジションはライト、打順は8番)、野球はそれほど上手ではなかったものの、ルールブックを完全に暗記して審判へ抗議するなど、チームに貢献したそうです。

(中学・高校時代は授業中に将棋をするのも好きだったそうです)

Sponsored Link

大学時代は学生運動や演劇活動に熱中していた

そんな大島さんは、高校時代は、成績がトップクラスだったため、生徒会長を務めていたそうで、高校卒業後の1950年には、京都大学法学部に進学すると、大学4年生の時には、京都府学連委員長を務め、学生運動に参加したそうです。

(全日本学生自治会総連合・米田豊昭委員長とともに、昭和天皇の京都大学来学に際して発生した「京大天皇事件」(1951年)、京都大学の学生デモ隊と警官隊が京都市内の荒神橋上で衝突した「荒神橋事件」(1953年)などにも関わっていたそうです)

また、その一方で、大学在学中に、劇団「創造座」を設立し、演劇活動にも熱中したそうです。

「大島渚は若い頃「青春残酷物語」「太陽の墓場」が大ヒット!」に続く

Sponsored Link