高校時代、成績優秀で、京都大学法学部に進学するも、学生運動と演劇活動に熱中していたという、大島渚(おおしま なぎさ)さんは、1954年、大学卒業後は、松竹に入社し、助監督として働き始めると、1959年には、映画監督としてデビューします。

「大島渚の生い立ちは?大学時代は学生運動と演劇活動に熱中していた!」>からの続き

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法学部の助手試験を不合格となって松竹の助監督試験を受けると合格

京都大学に進学後は、学生運動に励む一方で、演劇活動にも熱心に取り組んでいたという大島さんは、法学部の助手試験を受けるも不合格となり、その際、著名な政治学者の猪木正道さんから「君に学者は向きませんよ」と諭(さと)されたそうで、

大学卒業後は、学者の道には進まず、「松竹」大船撮影所の助監督試験を受けると、見事合格したそうです。

自作シナリオ「愛と希望の街」(「鳩を売る少年」)で映画監督デビュー

こうして、1954年4月、「松竹」に入社した大島さんは、大庭秀雄監督、野村芳太郎監督など、様々な監督の下で、助監督を務めながら脚本を書きためたそうで、

1959年、27歳の時には、「松竹」の新人スターを紹介する短編映画「明日の太陽」で初の監督を務めると、続く同年9月には、自作のシナリオ「鳩を売る少年」が「愛と希望の街」に改題されて映画監督デビューを果たすのですが、

大島さんは、

『鳩を売る少年』では(会社側が)小品に見えるというんです。小品なんだけどね。しょうがないから、まず『怒りの街』という題名にしたんだよ。

そうしたら不穏当だっていうんだな。またまたしょうがないから『愛』を付けて『愛と怒りの街』。でもまだいけないという。最終的には『愛と悲しみの街』で手を打ちますと言って帰ったの。

そうしたらあくる日、台本には『愛と希望の街』って印刷されていたんだよな。これには腐った

と、語っています。


「愛と希望の街」より。(左から)藤川弘志さん、望月優子さん、富永ユキさん。

(この「鳩を売る少年は」は、貧しいゆえに飼っている鳩を売る少年と、お金持ちの少女の交流と断絶を描いた作品なのですが、会社からは、「題名が暗くて地味」だと指摘されて「愛と希望の街」に改題されたうえ、二番館のみでの、細々とした公開にとどまったそうです)

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「青春残酷物語」「太陽の墓場」が大ヒット

それでも、大島さんは、1960年には、安保闘争の中、やり場のない憤りを抱えた若者が破滅へ向かっていく姿を描いた「青春残酷物語」、大阪のドヤ街を舞台に、非人間的な状況の中で非人間的に生きる人間の姿を描いた「太陽の墓場」と、立て続けに発表すると、映画は大ヒットを記録。


青春残酷物語」より。桑野みゆきさんと川津祐介さん。


太陽の墓場」より。佐々木功(現・ささきいさお)さんと炎加世子さん。

これらの大ヒットにより、大島さんは、情緒的なメロドラマを信条とした松竹らしからぬ作風から、「週刊読売」誌上で作家の長部日出雄さんに、“松竹ヌーベルヴァーグの騎手”と称されるなど、一躍脚光を浴びたのでした。

(本来、”ヌーヴェルヴァーグ”とは、1950年代後半からフランスで始まった映画運動で、「新しい波」という意味ですが、奔放さや反権威の姿勢が、フランスで勃興しつつあった”ヌーヴェルヴァーグ”と似ていたことから、それらの新しい映画に対して、マスコミによって”松竹ヌーヴェルヴァーグ”と名づけられたそうです)

「大島渚が若い頃はテレビのドキュメンタリーで高い評価を受けていた!」に続く

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