「青春残酷物語」「太陽の墓場」と続けて大ヒットを記録し、”松竹ヌーベルバーグの騎手”と呼ばれるようになった、大島渚(おおしま なぎさ)さんは、続いて、安保闘争を描いた「日本の夜と霧」を発表するのですが、「松竹」により、上映を無断で打ち切られ、これが原因で独立。その後は、なかなかヒット作に恵まれませんでしたが、テレビのドキュメンタリー作品で高い評価を受けるようになります。
「大島渚は若い頃「青春残酷物語」「太陽の墓場」が大ヒット!」からの続き
「日本の夜と霧」が無断で上映打ち切りとなり松竹を退社
1960年、「青春残酷物語」「太陽の墓場」が大ヒットした大島さんですが、同年、続けて発表した安保闘争を描いた「日本の夜と霧」が、公開からたった4日で、「松竹」の意向により、無断で上映を打ち切られてしまったことから、
大島さんは、このことに激しく抗議し、1961年6月、新人監督としての契約期間を残したまま、違約金を払って「松竹」を退社します。
「日本の夜と霧」より。
(ちょうどその頃、社会党の浅沼稲次郎委員長が17歳の右翼少年に刺殺されるという事件(浅沼稲次郎暗殺事件)が発生しており、政治的な問題への批判を含むこの作品の上映に、与党筋からクレームが入ったと言われています)
松竹を退社し小山明子らと独立プロダクション「創造社」を設立
そんな大島さんは、その後、共に「松竹」を退社した妻で女優の小山明子さん(前年の1960年に結婚)、脚本家の石堂淑朗さん、助監督で脚本家の田村孟さん、俳優の小松方正さん、戸浦六宏さんの6名で、独立プロダクション「創造社」を設立すると、
(後に、俳優の渡辺文雄さんも参加)
1961年には、大江健三郎さんの同名小説を原作とする「飼育」を発表するのですが、ヒットせず。
「飼育」より。
1962年には、「東映」から誘われる形で、初の時代劇となる大川橋蔵さん主演の「天草四郎時貞」を制作するのですが、これも興行は惨敗。
「天草四郎時貞」より。
その結果、続いて「大映」で撮影する予定だった山本富士子さん主演の「尼と野武士」は制作中止となってしまい、大島さんは、「松竹」「東映」「大映」から、事実上、商業映画を撮る力量がない監督としての烙印を押されてしまったのでした。
(「天草四郎時貞」は、時代劇らしからぬ暗い画面に、長回しの多用、ディスカッションが延々と続いたそうで、それがヒットしなかった理由だと言われています)
「忘れられた皇軍」などテレビのドキュメンタリー作品で高い評価を受ける
そのため、大島さんは、以降3年に渡り、劇場用映画から遠ざかっているのですが、テレビの世界に活動の場を見出すと、1963年には、日本兵として戦傷を負いながら、韓国籍ゆえに一切の保証を拒絶された、元日本軍在日韓国人傷痍軍人を扱った、ドキュメンタリー作品「忘れられた皇軍」が話題となるほか、翌1964年には、脚本を担当したテレビドラマ「青春の深き渕より」が芸術祭文部大臣賞を受賞。
「忘れられた皇軍」より。
さらには、自ら南ベトナム軍を取材したテレビドキュメンタリーや、日本生命のPR映画「小さな冒険旅行」(1963年)、連続テレビ映画「アジアの曙」(1964年)など、数多くのテレビドラマやドキュメンタリーを次々と手掛け、高い評価を受けたのでした。
「大島渚が若い頃は「絞死刑」「少年」「儀式」等で高い評価を受けていた!」に続く
「アジアの曙」より。小山明子さん(左)と御木本伸介さん(右)