演劇の勉強と陸上競技をするため早稲田大学に進学すると、その2つの相乗効果で、映画監督を志そうと考え始めたという、篠田正浩(しのだ まさひろ)さんは、大学卒業後は、大学院進学を考えていたそうですが、お母さんが急逝し、就職しなければならなくなったといいます。

「篠田正浩は陸上競技をやっていたから映画監督になれた?」からの続き

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母親が他界し大学院進学を断念

陸上の練習で焼け野原の新宿を走っている際、インスピレーションを感じ、職業として映画監督を意識しだしたという篠田さんは、大学卒業後は就職せず大学院に行って研究をしようと思っていたそうですが、

そんな中、お母さんが突然他界し、お葬式で、お兄さんから、

おまえのために母の遺した口座が数万円あるから、もうこれで独立してくれや。大学も卒業だからあとは自分でやってくれ

と、言われたそうで、

どこかで働かなくてはいけなくなってしまったそうです。

「松竹」の助監督試験をダメ元で受験

そんな矢先に、クラスメートだった、映画会社「松竹」の御曹司・白井昌夫さんから、

篠田、今度助監督試験をやるよ。もし受けるのだったら、俺が紹介してもいいよ。紹介者があれば身元が正しいということになるから口頭試問で有利になる

と、誘われたそうで、受験することにしたそうです。

ただ、「松竹」の社長・城戸四郎氏は、助監督だけは縁故採用を一切しないという厳しい方針で、自身の甥っ子でさえも合格させなかったそうで、篠田さんはダメ元で試験を受けたそうです。

(「松竹」は、双子の兄弟である白井松次郎氏と大谷竹次郎氏が築いた会社なのですが、白井松次郎氏の次男が白井昌夫氏。当時、松次郎氏は既に他界しており、その後、社長に就任したのが城戸四郎氏。ちなみに、城戸氏の最初の妻は大谷竹次郎氏の庶子)

助監督試験の筆記試験を難なくクリア

こうして、入社試験を受けに松竹大船撮影所まで行った篠田さんですが、当時はひどい就職難だったことから、受験者を収容する大船中学校は既にいっぱいになっており、入れらない者は大船小学校へ行かされたそうで、篠田さんは小学校の机で試験を受けることに。

(小学校の机に座らされ、もう、やめて帰ろうかと思ったそうです)

すると、最初は語学の試験で、英語・ドイツ語・フランス語の文章をそれぞれ和訳する問題が出たそうですが、なんと、大学のフランス語の卒業試験と同じ問題だったそうで、なんなくクリア。

(英語・ドイツ語・フランス語ともに、ヴィクトル・ユーゴーの「レ・ミゼラブル」で、主人公・ジャン・バルジャンが、少女・コゼットに人形を買ってあげるも、宿屋の娘に人形を取られてしまうという同じ内容だったそうですが、後に満点だったことを知ったそうです)

次の試験は、創作の試験で、「ある女の日記」というタイトルが与えられ、詩でもシナリオでも小説でもどんな形式でもいいから、2時間で書くというものだったそうですが、これもなんなくクリアしたのだそうです。

(これも、後に、1番の成績だったと知ったそうです)

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助監督試験の面接は今村昌平のお陰で通過?

そして、面接では、会社の質問をする人、監督の質問をする人、組合の質問をする人と3つのデスクがあったそうで、

まず最初に、組合の質問をする人から、

君は助監督になったら組合に加盟しますか?

と、質問されると、「はい」と答えたそうです。

というのも、篠田さんは、事前に、今村昌平さん(後の映画監督)から、もし「ノー」と答えたら、組合が権利としてこの助監督は採りたくないと拒否できるため、「イエス」と言えばいいと教えてもらっていたのだそうです。

次に、監督の質問をする人から質問されたそうですが、これも、監督の前に行ったらそこの名札を見れば誰だか分かるので、その監督の映画の一本でも観ていたらベタ褒めすればいいと、今村さんから教えてもらっていたことから、その通りにしたそうです。

最後に、会社の質問をする人から、支持する政党はどこかと質問されたそうですが、これに関しても、今村さんに、支持する政党を聞かれたら(思想を聞かれたら)、自爆したい人は共産党と答えればいい、かといって、自民党と答えると、ゴマすりで監督の資格がない人だと思われるため、これも落とされる、などと、色々教えてもらっていたそうで、無事、こなすことができたのだそうです(笑)

「篠田正浩が若い頃は松竹で助監督として下働きしていた!」に続く

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