早稲田大学では、演劇の勉強をしつつ、競走部(陸上部)で陸上の練習に励んでいたという、篠田正浩(しのだ まさひろ)さんですが、陸上の練習で焼け野原になった新宿の街を走っていた際、あるインスピレーションを感じたそうで、これが職業として映画監督を考えるようになった一つのきっかけとなったそうです。

「篠田正浩の早大時代は箱根駅伝で2区走者として準優勝に貢献していた!」からの続き

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陸上練習中に焼け野原の新宿を走るアメ車を映画のワンシーンのように観ていた

演劇の勉強と陸上競技をするため、早稲田大学に進学したという篠田さんですが、ある日の陸上の練習中、走りながら物を見ることは、モーションピクチャー(活動写真、映画)だと気がついたそうです。

(走っていると、景色がシャッターを切るように、その瞬間しか見えないから)

というのも、篠田さんが陸上の練習で新宿の街を走っていると、一面焼け野原の中、防空壕で暮らしている人が外の水道でバケツに水を汲み、防空壕の下に降りていく姿が目に入ったそうですが、

(1948~1949年頃の新宿の街は焼け野原で、まだ、防空壕で暮らしている人がいたそうです)

そのすぐ目の前を、アメリカの繁栄を象徴するような、シボレー、フォード、ポンティアック、ナッシュなどの自動車が通り過ぎて行ったのだそうです。

アメリカの女性がタバコを吸う姿に興味を持った

そして、そのシボレーやフォードを運転する男性の横には、妻なのか愛人なのか、タバコを吸っている女性が乗っていたそうですが、

(アメリカでは、第二次大戦中、若い男性が戦争に行っている間、女性が男性に取って代わって、スクールバスなど自動車の運転手をするほか、子供の送り迎えも自動車でするようになっており、こうして、男性社会と結びついたことで、女性もタバコを吸うようになっていたそうです)

それが、女性の自立のシグナルのように感じられ、

アメリカではこれから離婚が増えるな、その後日本も続くのかな

などとも、思ったそうです。

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陸上競技をやっていたから映画監督になれた?

また、篠田さんは、シボレーが通り過ぎる一瞬で、そのタバコを吸っていた女性の口紅とタバコを持っている指のマニキュアが同じ赤だったのが見え、口紅がサーモンピンクでマニキュアがイタリアンレッドだったら合わないなとも考えていたそうですが、

篠田さんは、その時のことを、

一秒の何分の一ですれ違っただけで、世界で一番とっぽい風俗を乗せたフォードの車の中と、焼け跡を走っている敗戦国の大学生が、「こんな自動車に、いつ俺は乗れるのだろう」と思っている。

荒涼とした焼跡の町では、水を汲んだ主婦が夕げの支度に防空壕を降りていく。こういう光景は日本の戦後を見い出す、素晴らしいフラグメントではないか。

と、語っており、

まさに、映画のワンシーンのように見えたこの占領下の風景が、文章で書くと長くなるところ、映像では一瞬で表すことができる、それをうまく組み合わせれば、文学に匹敵する映像言語が生まれるのではないかと、映画監督を目指すきっかけとなったのだそうです。

ちなみに、篠田さんは、

人間の視覚なんていい加減なもので、静止画をあまり認識しない。視覚は動いたものを見る、動くものは見られるんですよ。僕は陸上競技をやっていなければ、この原理を発見せず、きっと映画監督にもなれはしなかった。

だから、瀬古選手のようにはなれなかったけど、(陸上部の)中村コーチには申し訳が立つと思う(笑)

とも、語っています。

「篠田正浩は大学卒業後は松竹の助監督試験を受けていた!」に続く

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