1960年、「恋の片道切符」で映画監督としてデビューすると、以降、「乾いた湖」「三味線とオートバイ」「わが恋の旅路」「夕陽に赤い俺の顔」「涙を、獅子のたて髪に」「乾いた花」など、次々と作品を発表し、”松竹ヌーベルヴァーグのリーダー”と称された、映画監督の篠田正浩(しのだ まさひろ)さん。

そんな篠田正浩さんは、お父さんの仕事の関係で、自宅にムービーカメラや映写機があり、幼い頃から、フィルムなど映画に慣れ親しむと、

小学生時代は、べルリン・オリンピックの記録映画「民族の祭典」や、黒澤明監督の「姿三四郎」に衝撃を受け、中学・高校時代はヨーロッパの映画を好んで観ていたそうですが、高校1年生の時には、歌舞伎「心中天網島(しんじゅうてんのあみじま)」を観て衝撃を受けたといいます。

今回は、篠田正浩さんの、生い立ち(幼少期~助監督時代)をご紹介します。

篠田正浩

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篠田正浩のプロフィール

篠田さんは、1931年3月9日生まれ、
岐阜県岐阜市の出身、

学歴は、
岐阜県立加納高等学校
⇒早稲田大学第一文学部卒業

ちなみに、「篠田正浩」は本名で、美術家・版画家・エッセイストの篠田桃紅(しのだ とうこう)さんは、従姉妹です。

篠田正浩の幼少期から少年期は戦争一色だった

篠田正浩さんは、1931年、「満州事変」が起きた年に、岐阜県の古い庄屋で誕生すると、1937年、6歳の時には、「支那事変」が始まり、1941年、小学5年生(10歳)の時には、「真珠湾攻撃」が行われるなど、戦争一色の中、幼少期から少年期を過ごしたそうです。

篠田正浩は中学3年生の時に切腹の仕方を教えられていた

また、1945年3月、篠田正浩さんが中学3年生(14歳)の時には、学徒動員令が出て、陸軍の各務原飛行場の軍需工場に働きに行くことになったそうですが、

そこでは、切腹の仕方を教えられたほか、空襲が始まると爆弾が落ちてきたり、胴体着陸した日本の飛行機が篠田さんたちの目の前で転倒し、パイロットが投げ出されるという壮絶な光景を何度も目にするなど、毎日、死と隣合わせで働いていたといいます。

ただ、このような状況を悲劇的だと思ったことはなく、むしろ、いつでも死ぬ覚悟(切腹する準備)はできていたといいます。

(この頃、日本にはもうガソリンがなく、避難した日本の飛行機は、短時間しか飛ぶことができなかったことから、間に合わない飛行機は胴体着陸していたそうです)

篠田正浩は14歳の時に敗戦を迎えると本気で切腹しようと思っていた

篠田正浩さんは、1945年8月15日、14歳の時、ラジオから流れる天皇の声(玉音放送)で敗戦を知ると、本気で切腹しようとしていたそうで、

翌年1946年正月に、天皇が「人間宣言」をした際には、裏切られたような気がして心底腹が立ったそうです。

そんな中、敗戦の原因はアメリカ人との体格さであると思い、身体を鍛えるために、(もともと足が速かったこともあり)陸上に打ち込んだそうです。

また、アメリカの音楽にも圧倒され、音楽でも日本はアメリカに負けていると感じたのだそうです。

篠田正浩は小3で黒澤明に衝撃を受け、中学・高校時代はイギリスやフランスのヨーロッパ映画を好んで観ていた

そんな篠田正浩さんは、陸上に打ち込む一方で、中学・高校の時には、イギリスやフランスのヨーロッパ映画を好んで観ていたそうですが、

実は、お父さんの仕事の関係で、家にムービーカメラや映写機があったことから、幼い頃から、フィルムなど映画に慣れ親しみ、小学3年生の時には、べルリン・オリンピックの記録映画「民族の祭典」(1936)を観て衝撃を受けるほか、黒澤明監督の「姿三四郎」(1943)を観て、さらなる衝撃を受けていたそうです。

篠田正浩は高校1年生の時に「心中天網島」を観て衝撃を受けていた

そんな中、篠田正浩さんは、高校1年生の時、お母さんに、歌舞伎の舞台、近松門左衛門の「心中天網島(しんじゅうてんのあみじま)」を観に連れて行ってもらったそうですが、

劇中、主人公の二人が遊郭で揉め事を起こしてそのまま逃げ出してくるシーンでは、そのままの姿ではなく、花道にかかったところで、紋付羽織の正装で出てきたことに、衝撃を受けたそうです。

というのも、篠田正浩さんは、これを見て、日本の神風特攻隊が白いマフラー(正装)をして出て行くのを連想したからだそうですが、

日本人は、ずっと昔から”いかに生きるか”ではなく、”いかに死ぬか”を教えられてきたため、日本の歌舞伎、能を勉強すれば、なぜ日本人が負けると分かっている戦争をしたのかが理解できるのでは、と思ったのだそうです。

篠田正浩は高校卒業技は演劇と陸上のため早稲田大学に進学していた

こうして、篠田正浩さんは、演劇を勉強するため、大学として一番有名で、かつ、陸上の学生大会で数多くの優勝を誇っていた早稲田大学に進学すると、さっそく、歌舞伎について論文を書こうと思ったそうですが・・・

その資料の量があまりにも膨大だったため、到底、大学の4年間で論文には出来ないと思い、断念したそうです。

(そのため、卒業論文は、映画「第三の男」に切り替えたそうです)

篠田正浩は早稲田大学在学中は陸上の選手として活動していた

篠田正浩さんは、早稲田大学在学中は、陸上の選手としても活躍したそうで、もともと、中距離走の選手だったそうですが、中村清コーチとの出会いで駅伝ランナーに転向したそうです。

篠田正浩は早稲田大学在学中、陸上部の練習中に映画監督になることを意識するようになっていた

また、篠田正浩さんは、陸上部の練習で、焼け野原になった新宿の街を走っていた際、走りながら物を見ることは、モーションピクチャー(活動写真、映画)だと気がついたそうで、

このことがきっかけとなり、映画監督になることを意識するようになったといいます。


篠田正浩は22歳の時に「松竹」に助監督として入社していた

そんな篠田正浩さんは、大学卒業後は、就職せず、大学院に行って研究をしようと思っていたそうですが、お母さんが、突然、他界したことから、働かなくてはならなくなったそうで、

そんな中、クラスメイトで、映画会社「松竹」の御曹司・白井昌夫さんから誘われ、「松竹」の助監督試験を受験すると、筆記試験、1次面接、最終面接と無事、合格し、1953年、22歳の時には、超難関だった「松竹」に助監督として入社したのだそうです。

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篠田正浩は28歳の時に自作のシナリオ「怒りの祭壇」を書き上げていた

こうして「松竹」に入社した篠田正浩さんは、助監督として働き始めると、他にも助監督が多くいたことや、元陸上選手ということで、任される仕事は体力の必要な力仕事ばかりだったそうですが、

様々な監督の下で下働きをしつつ、監督の脚本の手伝いもするようになり、1959年、28歳の時には、ついに自作のシナリオ「怒りの祭壇」を書き上げたのだそうです。

「【画像】篠田正浩の若い頃は?デビューから現在までの経歴を時系列まとめ!」に続く

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