戦時下の日本で誕生すると、1945年、中学3年生の時には、学徒動員で飛行場に隣接する軍需工場に働きに行くことになった、篠田正浩(しのだ まさひろ)さんですが、そこでは、死と隣り合わせの壮絶な体験をするも、その状況を悲劇的だと思ったことはなく、むしろ、当たり前だと思うほど、いつでも死ぬ覚悟ができていたといいます。

「篠田正浩の生い立ちは?少年時代は天皇を現人神と信じていた!」からの続き

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陸軍・各務原飛行場の軍需工場で空襲のなか命がけで働いていた

中学3年生の時、学徒動員令が出て女子挺身隊と共に陸軍の各務原飛行場の軍需工場に働きに行くことになった篠田さんですが、

(ゼロ戦(零式艦上戦闘機)が最初にテスト飛行をやった場所だそうです)

空襲が始まると(地平線から米軍の大型爆撃機「B29」がパッと浮き上がるのが見えた瞬間)、篠田さんたちは、自分たちが働いている工場側の防空壕(ごう)には入らず、幅400メートルもの飛行場の滑走路を必死に走って横切り、たこつぼへ飛び込んでいたといいます。

(防空壕に入るとかえって死んでしまうため)

爆弾投下後にできた穴埋め作業をしていた

そして、その直後には、1トンもの爆弾が滑走路に落ちたそうですが、1トンの爆弾が投下されると、20メートルくらいのクレーターができたそうで、篠田さんたちは、必死にその穴埋めをして、平らに均(なら)す作業をしていたそうですが、

当時、日本にはもうガソリンがなく、避難した日本の飛行機は、短時間しか飛ぶことができなかったことから、間に合わない飛行機は胴体着陸したそうで、篠田さんたちの目の前で転倒し、パイロットが投げ出されるという壮絶な光景を何度も目撃したといいます。

いつでも切腹する(死ぬ)覚悟はできていた

そんな中で働いていた篠田さんが夜になっても帰ってこないと、両親はとても心配したそうですが、

(この飛行場は、岐阜市から電車で30分くらい東の郊外にあり、爆撃を受けると、交通が途絶えてしまったそうです)

当の本人の篠田さんは、このような状況を悲劇的だと思ったことはなく、むしろ、当たり前だと思うほど、いつでも死ぬ覚悟(切腹する準備)はできていたのだそうです。

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敗戦を悟る

ところで、篠田さんが軍需工場で働き始める前年の1944年7月には、すでにサイパン島が陥落しているのですが、そうなると、日本はもうおしまいだということを、篠田さんは飛行場勤務の中で知ったそうで、

(サイパン島は、第一次世界大戦後、日本の委任統治領となり、日本軍が飛行場を建設していたのですが、そこがアメリカに陥落したことで、「B29」はガソリンを満タンにすれば、ノンストップで日本本土を攻撃できるようになったことから)

実際、それまで軍歌ばかりが歌われていたのが、ほどなくして、「安里屋(あさとや) ユンタ」(沖縄の古い民謡で恋愛歌)という歌が沖縄から伝わってきて、歌われるようになり、篠田さんたちは、いよいよ、日本はもうおしまいだ、とはっきり悟ったそうです。

(これは、沖縄にいたパイロットたちが各務原に来たこと、すなわち、沖縄に米軍が上陸してきたことを意味していました)

「篠田正浩は少年時代「天皇の人間宣言」に大きなショックを受けていた!」に続く

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