1953年、「大映」に入社し、同年「花の講道館」で映画デビューすると、以降、「大映」の看板女優として活躍し、1963年、フリーとなってからは、舞台を中心に活動を続けている、山本富士子(やまもと ふじこ)さん。今回は、そんな山本さんの生い立ちについてご紹介します。

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年齢は?出身は?身長は?本名は?

山本さんは、1931年12月11日生まれ、
大阪府大阪市西区立売堀の出身、

身長159センチ、

血液型はAB型、

学歴は、
大阪府立大津高等女学園(現・大阪府立泉大津高等学校)
⇒京都府立第一高女(現・京都府立鴨沂高等学校)卒業
⇒藤川学院

趣味は、一筆画、

特技は、料理で、一筆画をあしらった「お品書き」も手作りするそうです。

ちなみに、「山本富士子」は本名で、3歳年上のお姉さんは耳鼻咽喉科の開業医だったそうですが、2018年に引退されたそうです。

少女時代には両親が離婚し母親に引き取られる

山本さんは、大阪・船場で「山重」という屋号の棉花問屋を営む名家の長女だったお母さんの山本勝代さんのもと、3人兄弟(一男二女)の次女として誕生するのですが、山本さんが9歳の時、両親が離婚すると、

その後は、お姉さんと共に、お母さんの実家で暮らし始め、声楽を習ったり、花柳禄寿門下の花柳禄之助さんについて日本舞踊を習ったそうです。

幼少期からオシャレが好きだった

そんな山本さんは、1944年には、府立泉大津高等女学園へ入学すると、戦時中だったため、勤労動員として駆り出されたそうですが、幼い頃から、おしゃまな女の子だったことから、

工場に行く時でさえも、クラスメイトがモンペ姿の中、山本さんだけは、麻地のスラックスを履くなど、モダンでおしゃれな格好をしていたそうです。

高校時代から美人で有名だった

また、終戦後は、自宅が洋館風だったとの理由で、進駐軍に米軍用住宅として接収されてしまったことから、高校3年生の時には京都に引っ越したそうですが、

転校先の京都府立第一高等女学校でも、学校の校則を無視してダンスのレッスンを受けたり、パーマをかけたりして、戦後の解放された空気を満喫したそうで、クラスメイトたちからも、「胸の痛くなるような美人」と称されるほどの美貌で有名だったそうで、自分でもそれを意識し、学校の休み時間には、必ずトイレの鏡に顔を映して見ては悦に入っていたのだそうです。

(自宅が進駐軍に接収された際には、娘たちの花嫁道具としてお母さんが買い溜めていた着物まで没収されてしまったそうで、その時に落胆する両親の姿を見て、「女性も手に職を持たなければ」と、山本さんは強く思ったそうです。ちなみに、お母さんは1948年9月に再婚したそうですが、山本さんは、新しいお父さんとの仲は良好だったそうです)

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“美貌”が原因で日本銀行の就職試験に不合格だった?

そんな山本さんは、高校卒業後は、藤川学院へ通って洋服のデザインを習うほか、京都のYMCAで英語の勉強をし、日本銀行の就職試験を受けたこともあったそうですが、残念ながら、不採用に。

ただ、その理由というのが、美貌にあったようで、

後に、当時を知る日本銀行の関係者が、雑誌のインタビューで、

適性など能力には全く問題がなかった。ただあの美貌ゆえ、男子行員達が落ち着かなくなるのではと心配されて採用が見送られた。

と、語っており、

当時の山本さんの美貌が相当なものだったことが伺えます。

「山本富士子は「ミス日本」で映画デビューも当初は人気はいまいちだった!」に続く

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