「日本の夜と霧」の上演を無断で打ち切られたことに激怒し、1961年に松竹を退社して、独立プロダクション「創造社」を設立するも、発表した作品がことごとくヒットしなかった、大島渚(おおしま なぎさ)さんですが、活動の場をテレビに移すと、次々とドキュメンタリー作品で高い評価を受け、1965年には、3年ぶりに劇場映画への復帰を果たすと、その後は、独立プロのATG(日本アート・シアター・ギルド)と業務提携して、「絞死刑」「少年」「儀式」などを制作し、高い評価を得ます。
「大島渚が若い頃はテレビのドキュメンタリーで高い評価を受けていた!」からの続き
「悦楽」で3年ぶりに劇場映画に復帰
「松竹」「東映」「大映」から、事実上、商業映画を撮る力量がない監督としての烙印を押されてしまった大島さんですが、テレビの世界に活動の場を求めると、ドキュメンタリー作品では次々と高い評価を受け、1965年には、山田風太郎さんの同名小説を原作とする「悦楽」で、3年ぶりに劇場映画に復帰。
「悦楽」より。中村賀津雄さんと加賀まりこさん。
これを皮切りに、松竹配給の提携が始まると、
以降、
「白昼の通り魔」(1966)
「日本春歌考」(1967)
「忍者武芸帳」(1967)
「帰って来たヨッパライ」(1968)
などの映画を次々と発表します。
ATGと業務提携し「絞死刑」「少年」「儀式」ほか次々と秀作を発表
さらに、1968年には、ATG(独立プロの「日本アート・シアター・ギルド」)と業務提携し、制作費を折半する”一千万円映画”の第一弾として、同年、死刑制度の原理的な問題や、在日朝鮮人差別の問題をコミカルに描いた「絞死刑」を発表すると、
「絞死刑」より。
その後も、
「新宿泥棒日記」(1969)
「少年」(1969)
「東京战争戦後秘話」(1970)
「少年」より。
など、政治的、社会的なメッセージ性の強い作品をATGと共同制作。
すると、1971年には、強権的で旧態依然とした家父長制度に支配された桜田家の歴史を、日本国家の近代の歩みと重ね合わせながら象徴的に描いた「儀式」が、「キネマ旬報ベスト・ワン」の監督賞と脚本賞を受賞したのでした。
(この「儀式」は、ATGの創立10周年記念映画として、従来の予算の倍である2000万円の製作資金を得て、重厚なセットをスタジオに組み、日本の戦後史の総括に挑戦した、大島さんの渾身の作品だったそうです)
映画製作資金稼ぎのためテレビで活動
こうして、大島さんは、独立系の映画で、輝かしい成果を収めたのですが、やがて、低予算での映画作りに疲弊し、「夏の妹」(1972)を最後に、翌年の1973年7月には、「創造社」を解散。
「夏の妹」より。栗田ひろみさんと佐藤慶さん。
その後は、フリーとなって、より自由な映画作りの道を模索し始めるのですが、日本の大手映画会社からはどこからも嫌われて起用してもらえず(監督候補に大島さんの名前が挙がるだけで拒絶反応が出たとも)、大島さんは、映画製作の資金を稼ぐため、情報番組に出演するなど、テレビで活動したのでした。
(そんな中でも、折にふれてオファーしてくれたのが、東映だったそうで、大島さんによると、「(東映は)声をかけてくれる会社」だったそうです)
「大島渚は若い頃「愛のコリーダ」で大ブレイクしていた!」に続く