1963年、23歳の時、「俳優座」に入団すると、以降、舞台を中心に活動し、「俳優座」退団後の1972年、テレビ時代劇「木枯し紋次郎」で主演を務めると、たちまちブレイクを果たした、中村敦夫(なかむら あつお)さんは、

1982年には、長編国際情報小説「チェンマイの首」がベストセラーとなり、これがきっかけで、1984年には、「中村敦夫の地球発22時」のキャスターにも抜擢されています。

今回は、そんな中村敦夫さんの、若い頃から現在までの活躍や経歴を時系列でまとめてみました。

中村敦夫

「中村敦夫の生い立ちは?高校時代は授業をさぼり映画館通いで大学も中退していた!」からの続き

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中村敦夫の20代の頃

23歳の時に「劇団俳優座」に入団するも左翼の幹部としばしば対立し、「トロツキスト」のレッテルを貼られていた

中村敦夫さんは、1963年、23歳の時には、「劇団俳優座」に入団すると、若手のリーダー的存在で有望株として活躍するのですが、劇団の幹部と対立することも多く、左翼傾向の強い劇団内では異端児として扱われ、「トロツキスト」のレッテルを貼られたそうです。

(「トロツキスト」とは、共産党とは別の立場にある共産主義思想者を指し、長年、各国共産党が、自党の指導に従わない共産主義者を、トロツキーの思想の影響下にあるなしとは関係なく「トロツキスト」と呼んで非難していたそうです)

とはいえ、中村敦夫さんは、もともと「トロツキー」など知りもしなかったそうで、逆に、トロツキーに興味が湧き、著書を読んでみたところ、なかなか良いことも書いてあると思い、

ああ、いいですよ、トロでも白身でも

と、受け流していたそうですが、

今度は、「新左翼」「過激派」のレッテルを貼られてしまったのだそうです。

25歳でハワイ大学に留学していた

そんな中村敦夫さんは、1965年、25歳の時には、アメリカ国務省のEWC奨学生演劇部門試験に合格したそうで、ハワイ大学に留学し、アメリカ社会について勉強したそうです。

中村敦夫の30代の頃

30歳の時にはアメリカでベトナム反戦運動に参加していた

また、中村敦夫さんは、その頃(25歳)、世界を旅して回ったそうで、一旦帰国するも、再び渡米し、1970年、30歳の時には、カリフォルニア大学バークレー校周辺を放浪したそうです。

(バークレーはヒッピーの本場だったことから、中村敦夫さんも仲間入りし、アメリカでベトナム反戦運動に参加したそうです)

31歳の時には「劇団俳優座」を幹部と対立し退団

すると、帰国後、もともと若手のリーダー的存在だった中村敦夫さんは、ますますその傾向が強くなり、新劇改革の若手リーダーとして劇団の幹部と対立を深めたそうで、

1971年、31歳の時には、中村敦夫さんら中堅・若手俳優が希望した「はんらん狂想曲」の上演に幹部が反対したことにより、俳優座首脳との対立が決定的となると、

中村敦夫さんは「はんらん狂想曲」を自主公演した後、市原悦子さん、菅貫太郎さん、原田芳雄さんらと共に俳優座を退団したのでした。

31歳の時にNHk大河ドラマ「春の坂道」で石田三成役を演じ、初めてマスコミ大きく取り上げられた

その後、中村敦夫さんは、(もともと、テレビや映画にも出演していたのですが)テレビ業界に活路を見出すと、1971年、31歳の時には、NHk大河ドラマ「春の坂道」で石田三成役を演じ、初めて、マスコミに大きく取り上げられます。

NHk大河ドラマ「春の坂道」で石田三成を演じる中村敦夫
「春の坂道」で石田三成を演じる中村敦夫さん。

32歳の時に「木枯し紋次郎」で大ブレイク

そして、1972年、32歳の時には、市川崑さん監修の時代劇「木枯し紋次郎」で、主役の紋次郎役に抜擢されると、ドラマは空前のブームになるほどの大ヒットを記録し、中村敦夫さんもたちまち大ブレイクを果たしたのでした。

ちなみに、中村敦夫さん演じる木枯し紋次郎は、口にくわえた長い楊枝(ようじ)がトレードマークで、

あっしには関わりのねえことで

という決まり文句が、お茶の間の人気を博したのでした。

「木枯し紋次郎」に出演する中村敦夫
「木枯し紋次郎」より。

木枯し紋次郎がどういう人物なのか分からず、演じるのに苦労していた

とはいえ、時代劇の経験がなかった中村敦夫さんは、木枯し紋次郎がどういう人物なのか、いまひとつ役柄がつかみきれず、この役を演じるのに苦労したといいます。

しかも、市川崑監督は、

そこで上を向いて立っていろ

走って、突然止まって、振り向け

などとしか言わなかったそうで、

なぜ、そこで上を向くのか分からず、紋次郎という人物を理解するのに、探りながらやっていたのだそうです。

ただ、やがて、(舞台でのお芝居は大げさにしなければならないが)リアリティを追求する映画やテレビのお芝居は、自然がいいことに気づいたそうで、

中村敦夫さんは、

僕も最初は戸惑いましたが、「演じる」という気持ちがあまりない方が、自然に映るということが段々と分かりました。

「紋次郎」が上手くいったのは、まさに「何もしなかった」からです。

と、語っています。

「木枯し紋次郎」に出演する中村敦夫
「木枯し紋次郎」より。

中村敦夫の40代の頃

43歳の時には長編国際情報小説「チェンマイの首」がベストセラー

「木枯し紋次郎」で一躍ブレイクを果たした中村敦夫さんは、以降、数多くのテレビドラマや映画に出演しているのですが、そのかたわら、1983年、43歳の時、長編国際情報小説「チェンマイの首」を出版すると、ベストセラーに輝いています。

「チェンマイの首」
「チェンマイの首」より。

ストーリーは、アメリカのある富豪が主宰する私的情報機関「デューク」の日本拠点員・堂田将司を主人公とした、タイを舞台に繰り広げられるハードボイルドで、海外の取材をもとにして書かれているのですが、

その後、東南アジア三部作として、「ジャカルタの目」「マニラの鼻」と続き、国際小説ブームの先駆けとなりました。

ちなみに、中村敦夫さんは、「木枯し紋次郎」で大ブレイクした後、映画が作りたくなり、そのために企画を考えたそうですが、通らず、がっかりしたそうで、その時、思い立ったのが小説を書くことだったのだそうです。

44歳の時に「中村敦夫の地球発22時」のキャスターに抜擢

そんな中村敦夫さんは、著書「チェンマイの首」での成功により、1984年、44歳の時には、日本最初の本格的な情報番組「中村敦夫の地球発22時」のキャスターに起用されると、テレビ情報番組という、新しい境地を開拓することにも成功し、

中村敦夫さんは、自身の公式サイトに、

テレビ界の流れに大きな変化をもたらしました。数十ヶ国の海外取材での経験から、国際的視点からの政治的発言が多くなり、政界入りの要請が強くなりました。

と、綴っています。

49歳の時に情報番組「中村敦夫のザ・サンデー」で司会に起用され、ジャーナリストの活動に専念

また、中村敦夫さんは、1989年、49歳の時には、情報番組「中村敦夫のザ・サンデー」で司会を務めると、以降、俳優活動を休止し、ジャーナリストの活動に専念しています。

中村敦夫のザ・サンデー
「中村敦夫のザ・サンデー」より。木村優子さんと中村敦夫さん。

中村敦夫の50代の頃

53歳の時に映画「帰ってきた木枯し紋次郎」で俳優業に復帰

しかし、中村敦夫さんは、1992年、52歳の時、「中村敦夫のザ・サンデー」を降板すると、1993年、53歳で、映画「帰ってきた木枯し紋次郎」で俳優業に復帰しています。

「帰ってきた木枯し紋次郎」に出演する中村敦夫
「帰ってきた木枯し紋次郎」より。

55歳の時、参議院選挙に出馬するも落選

また、中村敦夫さんは、情報番組「中村敦夫の地球発22時」での政治的発言から、政治家との付き合いが始まり、俳優業と並行して、政治の世界に入って行ったそうで、

1995年、55歳の時には、「新党さきがけ」から、候補者が足りないため参院選に出てくれないかと頼まれ、出馬したそうですが、落選してしまいます。

(実は、中村敦夫さんは、選挙の世論調査では、いつも1位だったため、まさか落ちるとは思っておらず、驚いたそうです)

58歳の時、再び参院選に出馬すると見事当選

そんな中村敦夫さんは、1998年、58歳の時、もう一度、参院選に東京選挙区から無所属で立候補すると、今度は、見事当選しているのですが、

中村敦夫さんは、再度、出馬した理由について、

冷やかしで出たみたいに思われるのはシャクだから、シャレや冗談で出たわけじゃないことをわかってもらうためにはもう1回出るしかない。

と、語っています。

中村敦夫

中村敦夫は64歳で政界を引退

その後、中村敦夫さんは、俳優業をセーブし、

2000年(60歳)には、「さきがけ」代表に就任すると、同年8月には、議員連盟「公共事業チェック議員の会」会長就任して、静岡空港建設反対運動などに取り組み、

2002年(62歳)には、「国民会議」と合流し、院内会派「さきがけ環境会議」を経て、党名を「さきがけ」から「みどりの会議」に変更するのですが、

2004年7月(64歳)の参議院選挙で比例区に転向すると、「みどりの会議」は全員落選し、中村敦夫さんは政界を引退したのでした。

中村敦夫の67歳~75歳の時は同志社大学院の講師、日本ペンクラブ理事など歴任

政界を引退後、中村敦夫さんは、

  • 2007年(67歳)~2009年(69歳)まで、同志社大学院・総合政策科学研究科で講師
  • 2007年(67歳)の時、環境小説「ごみを喰う男」を発表
  • 2008年(68歳)~現在 日本ペンクラブ理事
  • 2008年(68歳)~2015年(75歳)まで、環境委員会委員長

など、様々な活動を精力的に行っています。

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中村敦夫は75歳の時に連続テレビ小説「まれ」に出演

また、中村敦夫さんは、セーブしていた俳優業にも復帰し、「CHANGE」(2008年)、「不毛地帯」(2008年)、「仁」(2009年)、「鉄の骨」(2010年)などのテレビドラマに出演しています。

そして、2015年、75歳の時には、朝の連続テレビ小説「まれ」で、ヒロイン・希(まれ)の同級生、紺谷圭太(山崎賢人さん)の祖父・紺谷弥太郎(こんたに やたろう)役を演じているのですが、

輪島塗りの塗師屋(ぬしや)で、粋だけど、仕事となると頑固一徹という昔気質の職人という役柄で、まさに、中村敦夫さんにぴったりの役柄となっています。

連続テレビ小説「まれ」に出演する中村敦夫
連続テレビ小説「まれ」より。中村敦夫さん(左)と山﨑賢人さん(右)。

「中村敦夫の元妻はアメリカ人!子供は娘?息子は?現在の妻は?」に続く

お読みいただきありがとうございました

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