1974年、大学在学中、「われら青春!」の主演でテレビドラマデビューして以来、40年以上もの間、俳優、ミュージシャンとして活動し続けている、中村雅俊(なかむら まさとし)さん。今回は、そんな中村さんの生い立ちについてご紹介します。

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年齢は?出身は?身長は?本名は?

中村さんは、1951年2月1日生まれ、
宮城県牡鹿郡女川町の出身、

身長182センチ、

血液型はO型、

学歴は、
女川第一小学校
⇒女川町立女川第一中学校
⇒宮城県石巻高等学校
⇒慶應義塾大学経済学部卒業

趣味は、
ゴルフ、ウォーキング、暗算、けん玉、

ちなみに、「中村雅俊」は本名です。

父親が若死にし母親に女手一つで育てられる

中村さんは、漁師だったお父さんのもと、3人姉弟(5歳年上と3歳年上の姉)の末っ子として誕生するのですが、3歳の時、お父さんが42歳という若さで他界。

以降、お母さんが八百屋や飲食店を営みながら、女手一つで育てられたそうですが、家では男の子一人だけだったので、家族や親戚からは、「王子」と呼ばれてかわいがられたそうです。

(宮城県女川町は漁業で潤っていた町で、そこには漁師たちを相手にした酒場が百数十軒もあり、そのうちの一つがお母さんの店だったそうです)

ただ、お母さんは仕事で忙しかったため、毎日、テーブルに食事代として200円置かれていたそうで、中村さんは、100円を食事代に使い、残りの100円を貯金して、当時流行していた、クリフ・リチャードなどの洋楽や、「ザ・スパイダース」「ザ・タイガース」など、グループサウンズのレコードを買っていたそうです。

外交官に憧れていた

そんな中村さんは、中学・高校時代はバスケットボール部に所属し、終電まで部活の練習に明け暮れる毎日を送っていたそうですが、

ある時、中学の友だちから、「外交官」という職業があることを聞いて、なんとなくかっこいいと思ったことや、とにかく田舎から脱出したい、東京に行きたいと、都会に憧れていたことから、外交官に憧れるようになり、東京外国語大学への進学を希望するようになったそうです。

(当時は冷戦時代で、旧ソ連や東ヨーロッパを舞台にした五木寛之さんの小説が人気だったことから、中村さんも愛読しており、ソ連の相手をする外交官になってやろうと考えていたそうです)

一浪して慶應義塾大学に進学

しかし、お母さんはというと、東北大学への進学を希望していたそうで、絶対に東京の大学へ行こうと決めていた中村さんは、お母さんと対立し、東京外国語大学を受験したそうですが・・・あえなく不合格に。

それでも、一浪の末、今度は慶應義塾大学を受験すると、20倍以上の高い倍率を合格。晴れて、念願の東京の大学に通うことができたのだそうです。

ちなみに、当時は、有名大学に合格すると、地元紙に名前が掲載されたそうで、東京へ行くことを反対していたお母さんも、地元紙に中村さんの名前が掲載されているのを見ると喜び、お店のお客さんに自慢していたとのことでした(笑)

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いわゆる「慶応ボーイ」ではなく貧乏学生だった

ところで、慶應義塾大学といえば、その学生は「慶応ボーイ」と呼ばれ、お金持ちを連想しますが、

(実際、同期生には10万円の家賃を払っている人もいたそうです)

中村さんはというと、横浜で、4畳半風呂なし、家賃5000円のアパートで下宿生活を送りつつ、ビルの清掃、家庭教師、ビアガーデン、ウエイター、ハンバーガー屋、三越デパートで商品の包装、店頭販売、貨物運搬、市役所、床磨きなど、17種類ものアルバイトを掛け持ちして学費を稼いでいたほか、

食事代を浮かせるため、友人宅に押しかけたり、家庭教師先や当時交際していた女性の家で食べさせてもらっていたそうで、到底「慶応ボーイ」ではなかったそうです。

(家庭教師の教え子や、彼女が不在の時でも、食事目当てに遊びに行っていたそうです(笑))

「中村雅俊が若い頃は「われら青春!」の「ふれあい」が大ヒット!」に続く

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