中村雅俊が若い頃は「われら青春!」の「ふれあい」が大ヒット!


かねてより、田舎を出て東京へ行くことに憧れていたこともあり、外交官を目指して、東京の大学を希望すると、一浪の末、慶應義塾大学に合格した、中村雅俊(なかむら まさとし)さんですが、英語の勉強のためにと入部した英語研究会で、俳優に目覚めると、トントン拍子で大ブレイクします。

「中村雅俊の生い立ちは?高校生の時は外交官を目指していた!」からの続き

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外交官になるべく英語サークルに入部するも・・・

外交官になるべく、東京の大学を希望し、一浪して慶應義塾大学に入学した中村さんは、同じく外交官に憧れていた同じクラスの友人に誘われ、まずは語学力を磨こうと、「英語會」(K.E.S.S.)という英語サークルに入ったそうです。

すると、そのサークルでは、ディベート、スピーチ、ディスカッション、ドラマという4つのセクションがあったそうで、中村さんは、一番おもしろそうだと思ったドラマを選び、英語劇をするようになったそうですが・・・

難関を突破し文学座附属演劇研究所に入所

いつの間にか、英語よりもドラマ作りに夢中になってしまったそうで、中村さんは、当初は、裏方のスタッフを務めていたそうですが、大学3年生の時、初めて電気工事人役に起用されると、その時、主役を務めた友人と、日本語の芝居をやろうと大いに盛り上がり、その勢いで、劇団「文学座」の研究生の試験を一緒に受けようということになったのだそうです。

(当時、中村さんとその友人は「文学座」のことは何も知らなかったそうで、劇団トップ3だった「文学座」「俳優座」「民芸座」の中で、「文学座」だけが毎年試験があったことを理由に、「文学座」を受けることにしたのだそうです)

すると、定員30人のところ、応募者が1400人以上も集まったそうですが、そんな難関を、中村さんは、1次試験、2次試験と、あれよあれよと合格し、1973年、大学4年生の時、狭き門を突破し、「文学座附属演劇研究所」に入所したそうで、

中村さんは、その時のことについて、

もちろんうれしかったですけど、自分でもとても不思議な気持ちがしました。それからの1年は文学座の稽古とアルバイトに明け暮れる日々。事務作業から道路工事、ビアガーデン、中華料理店の出前などあらゆることをやりました。

と、語っています。

(ちなみに、友人はというと、試験当日、寝坊して来なかったそうです(笑))

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テレビドラマ「われら青春!」の挿入歌「ふれあい」がミリオンセラー

さらに、大学卒業間際には、「文学座」の1期先輩だった松田優作さんが、日本テレビの大物プロデューサー・岡田晋吉氏を紹介してくれたそうですが、岡田氏にも大いに気に入られたそうで、

(当時、岡田氏は、日本テレビの青春ドラマと刑事ドラマをすべて取り仕切っていたそうです)

1974年4月、「われら青春!」で主人公の教師・沖田俊役に抜擢されて、テレビドラマデビューし、同年7月1日には、挿入歌「ふれあい」で歌手としてもデビュー。


「ふれあい」

すると、ドラマは大ヒットして中村さんもたちまち人気を博し、挿入歌の「ふれあい」もレコード売上100万枚(120万とも)を超え、オリコン10週連続1位となる大ヒットを記録したのでした。

(松田優作さんは、基本的には、仲間や後輩たちに厳しかったそうですが、中村さんは高く評価されていたそうです)

ちなみに、中村さんは、

1つ1つの出会いによって大学卒業後すぐにデビューさせてもらいましたから、あの頃の自分にスポットを当てると、ちょっと運が良すぎるんじゃない?って言いたいくらい

いきなり主演(ドラマ『われら青春!』)ですし、挿入歌になったデビュー曲『ふれあい』がオリコンランキングで10週間トップになったり。どちらもなかなか無いことですよ。

“そういう状態がずっと続きっこない”というのを最初にやってしまったので(笑)、俺は若くて感じてなかったけど、プレッシャーはあったと思います

と、語っています。

(さらには、撮影が1974年1月スタートだったため、中村さんは卒業試験が受けられず、大学を中退することを覚悟していたそうですが、プロデューサーの岡田氏が、「ちゃんと試験を受けて卒業しなさい」と、試験期間中は撮影スケジュールを空けてくれたそうで、そのお陰で大学も無事に卒業することができたそうです。(ドラマは卒業の翌月の4月7日に第1話が放送されたそうです))

文字に続く


「われら青春!」より。中村さんと島田陽子さん。

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